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祈指団弾談

盲目的信仰ではなく、謙虚さのみを唯一の信仰として理解と理解の輪を広げてゆくネット最終宗教

形而上学という学問は、断捨離すべき時がきているのかもしれない。

私は学者ではありません。

アメブロにて「こ、こげな宗教哲学世界中を探してもありえん」というタイトルの宗教哲学が主題のブログを書いているのは、

 

自身の生死、苦楽のさまざまな極限的な体験から、普遍な根源的な人間性や、軸となり指針となる精神を語らんとするものです。

(死の体験というのは、ぎりぎりで助かった貴重な体験が、いろいろあったりしたことを言います。いわゆる瀕死の状態での臨死体験のような幻想の事ではありません^^)

 

なので、過去の宗教哲学の学問の世界については私は知らないのですが、

キリストや仏陀に関しては深い推理が働きますし、学問的にそれらが今だに解明されていないことが

これもいろいろ推理されるために、それで自分が立ち上がってみるしかないと思え、書き始めただけなのです。

 

しかし、ちょうど、「横井哲学」のメーリングリストで、いろいろ論議をしようと、

 

2年ぶりぐらいにそのSNSを訪れてみて、

 

そこでの論議で形而上学と神について何かが話しだされようとしていたところに興味が引かれ、

 

形而上学とは何なのだろうと調べ始めてみたのです。

 

ウィキペディアで見ますと、

 

たしかにこれは、神とか死後の世界とかのことが昔から形而上学という学問として論じらてていたようです。

 

こうなるとそれは私の専門のような世界ですからね。

 

あっという間に先ほどなのですが、最後まで読んでしまいました^^。

この学問の世界は、どうやら最初からかなりめちゃくちゃに混乱していますね。

 

あるいは、かなり強引に論理を破壊して出発してしまってますね。

 

最後も、別な概念を形而上学と呼ぶようになっていることが書かれていますが、

例えば、「こころ」も目に見ないので、神と同じように形而上学として扱われていたりする学問があるようで^^、

これは、むしろ、さらなる混乱へと病状が進んでいる学問と言えてしまうのかもしれません。

 

詳しい論議は、「横井哲学」のメーリングリストできちっと論議してみたいと思いますが、

 

これだけめちゃくちゃな学問の歴史を、こんなに概略的に解説されては、一般の読者は、それこそ何を言っているのかさへ解らないのではないでしょうか。

 

この「追伸」→URL内の記事は、けれども、そうした学問的な興味を持たれている方にも、興味深い話題を提供するために、工夫した記事として書かれ始めたページです。

 

そこで、今なりに、

 

少し整理しておくことにしたいと思います。

 

アリストテレスがまず、自然科学を「第2哲学」と呼び、

その存在の原因となる神を哲学する(考える)学問を「第1哲学」と規定して出発してしまったようですね。

 

これが、すでにかなり強引すぎるのです。

 

よく有神論者は、神の存在の証明であるかのように、こんな説明をしたりします。

 

雲の上からの綱でぶら下がっている世界を仮定して、

 

世界の存在が保たれているのは、雲の上の世界がこちらからは見えなくても、何者かがその綱を支えているから、

 

下に落ちないで、存在し続けていられるのだ。

 

 

ゆえに身には見えなくても、我々の存在を支える神が必ず存在している。

 

というふうになのですが、

 

私たちは別に、空中の籠か何かの中で生きているわけではないですよね^^。

 

私たちが存在しているということは、原因が神であるかどうかは解らないわけです。

宇宙に最初から存在が存在していれば、それは神を想定しなくても存在していたことになるわけですよね。

 

少し込み入ってますが^^、難しいお話ではないでしょ(^^♪

 

もちろん、神という絶対者が原因で存在が存在しているのかもしれませんよ^^。

 

でも、これって、どちらが本当なのか、解る人なんていないはずなんです。

 

ここまで解りますか?

 

こう書けば、この話のおかしさは誰でもわかるかもしれません。

 

神がいると仮定すれば、存在は神がいなければなりたなないし、

 

見えなくても雲の上から綱を下した籠の中に私たちが生きているかのように神なしには私たちは存在しえないわけです。

 

神がいないと仮定すれば、私たちの宇宙は最初から何かの形で、(それはエネルギーかもしれませんし、真空状態なのかもしれませんし、私にはその辺はわかりませんが^^)存在していたから今も存在し続けていて、その過程に私たちは生まれることとなったという事になります。

 

ということは、両方とも明らかに成り立つ論議ではないですよね。

論理的にはあくまで成り立たないはずです。

 

そこを最初から、原因としての神あるいは神のような原因者?^^?を、さらに「第一哲学」と規定までして、いかにも学問的な体裁を整えて、形而上学が出発してしまったという事になるわけですよね。

 

つまり、こんな昔から、有神論者と無神論者の無駄なばかばかしい論議が始まってしまっていたということなのです。

神を信じたい気持ちとか

逆に神なんて信じられないという気持ちとかは、

 

気持ちの面ではいろいろな体験からよくわかります。

 

であるならであるほどに、

 

ほんとうは、論理的に、それはお互いに論理にはならないということをこそ、

哲学者たちは明確にすべきだったのだと私は思います。

 

ウィキペディアの「形而上学とは」を読んで、いよいよ、

私は、

 

おそらく形而上学という学問は、一度断捨離してしまうべき時が来ているのではと思えてしまっています。

 

 

世界最高峰の哲学者であられる横井直孝の「真の哲学体系を求めて」というメーリングリストの中で、できるだけ早く

そのへんをきちっと質問してみようと思っています。

 

今日は以上です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ばかげたほども、簡単な生き方シヨーーートコーナー(-_-;)

◎何事も楽しく。そうすれば、毎日が楽しくなるだろう♪

 

◎友達なんかいらないと思ったその日から友達が増え始めた♪

◎そこは悩むより気楽に♪

 

◎心の底からの笑顔ほど美しいものは、宇宙中探してもみつからない♪

 

◎笑いを忘れずに♪

 

全部あたりまえのことですけど、

 

これ認知症になりかけたご老人たちと話してるうちに出てきた言葉、年輪が入ってるかも。

 

ky きょうはショーートコーナーでした。

 

では、また♪

いつか死んでゆく私たち人間の大地や意識は、夢まぼろしと変わりないのか?

この疑問は、

私自身が、体験した

 

子供の頃「とある大人からのいじめ」で体を壊し、虚弱体質となり、なんども死線をさまよい、沢山の病気にもかかり、すっかり病弱となっていたときに

病弱な状態の人によくある

睡眠中の大量の夢の記憶から生まれた疑問でもあるのです。

 

あまりにもいろいろな夢をたくさん見ましたので^^

その話自体も面白いのですが、

ここはその辺象徴的な特筆すべき夢のみを

掲げておきましょう。

 

実話の夢のお話です^^。

 

ある朝私は眠りから覚め、起き上がり歯を磨きに洗面所に向かっていたのですが、

そのとたん、はっと気が付くとそれはまだ夢の中であり、

やっと今度こそ布団の中で目を覚ましたので、

 

おもむろに起き上がり歯を磨きに洗面所に向かっていたのですが、

そのとたん、はっと気が付くと、目が覚めて^^

今度こそ目が覚めたと思って、起き上がり、

今度こそ歯を磨きに洗面所に向かって歩き出し

洗面所で歯を磨いていたら

 

はっと気が付くと目が覚めたばかりで、

私はまだ布団の中にいたというお話し。

 

なんと、これが延々と続く夢をみ、み、みたことが

 

ほんとうにあるのですすす。(嘘がテーマとなっている文からこちらに来ているの信じてもらえないかもしれないですけどね^^)

そのうちに、その夢の中でなのですが、

とうとう歯はとっくに磨き終わり、

さらには昼近くまで起きていたのに(夢の中でです)

 

そこはっと気が付くと、それもまた夢の中だった!

という夢からやっと覚め、

 

起き上がってまずは歯を磨きに

 

という繰り返し!!!!!

 

もちろん、だんだんだんだんだんだんと

私はゆめのなかでであっても、

恐怖でいっぱいになってきたのです。

 

夢から覚めてもそれはもう信じられず、

私は必死で目を開けようとしていました。

 

笑い事じゃなかったです。

 

歯を磨いてるときも朝食を食べているときも

必死になのですが、

目をががぐわわっと必死で開けよう開けよう

としていたのです。

その努力のかいあって、目が覚めるときもあり

ましたが、

たいていは、今度こそ本当に目が覚めたと

安心したとたん、目が覚めることが多かったですす。

 

もちろん安心してください、

 

とうとう本当に、たぶん十何回目かだったと思いますが

ちゃんと

ちゃあんと目が覚めたからこそ、今までこの大地に生きてきて

69歳の今、これを(自分で笑いながら^^)書いていられるわけです。

 

ともかく、こんな夢を見てしまえば、さすがまだ小学5年生の子供でも、

夢と現実の違いって何なのだろうと考えてしまいます。

 

どこがどう違うのだろうぅってです。

 

それは、本当に目が覚めてみれば感覚的に本当に安心できる違いも感じられるのですが、

その数か月前までは、死の床を何度もさまよっていた私には、

 

人間もいつか死んでしまい意識がなくなってしまうのであれば、

この意識、この大地も「夢と違いはないのではないか」という考えが当然起こってしまいます。

 

この死のぎりぎりの体験も、こんな強烈な特徴的な^^夢の体験も、さすが強烈でしたので、

子供ながら私は、それなりの答えをまるで哲学者みたいに考えざるを得なくなっていたのです。

 

また中学生までには、さすが重要な答えのいくつかを見出しています。

 

1つには、

夢の中では反省したり、したがって進歩したりできない、という点です。

夢の中の意識は、見つめるという人間が獲得した能力がはがれていて、夢の中の映像なりにとりこまれ流されきっている状態だからですが、

 

その辺も、考察すると面白いところ、ここではこれ以上の深追いはしません。

詳しくは、

アメブロ「こ、こげな宗教哲学世界中を探してもありえん」のほうでの小テーマで「夢」について扱う時まで^^待っていてください。

実は夢現実の違いで重要なことは、いくつもあるのですが、

中学生までに気が付いたことの中で重要な点がもう一つあります。

睡眠中の夢の中では、これはあたりまえのことでもあるのですが、

「「友達がいない」」という点でした。

 

どんなにリアルな友達の映像を夢の中で見ても、そこにいるのは「私」の中の映像に過ぎず、

 

そこにはこの大地に生きている友達がいるわけではないという点なのです。

 

私は当時、ありとあらゆる悪夢も楽しい夢も見たので、なおさらそのことは強烈に私の心に入ってきたのですが、

幻想や夢の中には、他の人がいない、現実の大地には他の人がいる、友達という大切な存在もいるのがこの現実という大地なのだという点、

 

そして、夢を見ないで、幻想に惑わされずにこの大地をしっかり人間的に、友達を大切にする方向で生きる事こそ、その方向で反省し進歩してゆくことこそ、そう努力して生きる事こそ

この現実を生きる事なのだ。

 

それが夢との違いだ。

という結論に達しているのです。

 

実は健康であれば、とくに心身ともに健康であれば夢はみません。

 

心から健康であれば、そこには争い無ければ、嘘もなくなります。

 

太古の大自然の中に生きていた人達は夢なんてみなかったでしょう。

 

そしてよし何かの病気の時に見た夢も、それはただただ、あまりにもはっきりした豊かで愛情あふれる現実との違いから、私のような夢との違い何て考えようもなく、その違いははっきりと意識に感じられていたことで笑。

 

ほんとうは、人間と人間が愛し合っていれば、それが夢との違いその物の意識に生きているという事です。

 

考えるまでもなくわかることであるわけです^^。

 

死の問題は本当は奥が深いです^^。

 

宗教哲学自体はまだまだ必須なので笑。

 

ですが、深い愛に、深い信頼に私たちの意識が包まれるとき、

死もまた、

愛という名の、他の人への愛という名の、

 

他の人の命への感謝という名の、

 

そういう大地に包まれてゆくそういう最後の体験

となりえるということ、

 

ここまでは、簡単ですが今日お話ししてみたかったことなのです。

 

では、きょうはここまでです。

 

以上にて♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本神話の場合の後の人たちの解釈の世界について

キリスト教の場合は、

アメブロの「こ、こげな宗教哲学世界中を探してもありえん」の16、17日目の「ところであなたは人間の嘘をつける能力をどう考えますか?」(5)(6)に書きましたように、

「アダムとイブ」の神話を全く不自然な

何とも言い難い悲しい解釈に変えてしまったわけですが、

 

では「日本神話」の場合、そのへんはどうなのでしょうか?

 

「日本神話」の場合は全くその逆です。

 

「日本神話」自体は逆にほとんど意味のない物語です。

 

右翼の人たちに怒られそうなことを書いていますが^^、

これもよく読めば、あるいは「素直」に読めば

誰でもわかるところかと思います。

 

ここでは詳しいその論述はしません。

略させていただきます。

 

しかし、「日本神話」の場合は、

後の本居宣長はじめ、

 

学者や宗教家たちの解釈の世界がなんとも深いのです。

 

それは、「アダムとイブ」の神話の価値を超えています^^。

 

 しかも、具体的にポイントをついて現代人がどうしたら自然な素朴な心に帰れるのかの道筋がそこに示されていたりするのです。

 

神道もまたそのいい加減さと、素晴らしさの両方をもっていることがこれで分かると思うのですが、

 

神道で語られる惟神の道というのは、

本居宣長古事記の中の神話から導き出した

一霊四魂(いちれいしこん)の瞑想によつて得られる

自然なもともとの魂、もともとの素朴な人たちの心のことであるわけなのです。

 

その「一霊四魂(いちれいしこん)」というのは

(詳しくは、べつに解説する予定ですが)

 

幸御霊、奇御霊、荒魂、和魂の四つの魂、を四魂と呼び、

それを統一する心「素直なこころ」を「一霊」と呼んでいる

というわけなのです。

 

詳しく書けばこれは、本当に素晴らしい考え方であり、

 

また不思議なことに、

 

日本人の心の奥深くにいつしか刻まれた精神ともなっているのです。

 

ただ、私の考えは、この精神や惟神の道の魂は、

かならずしも大和政権が原点となって生み出された日本魂ではなく、

さらにさかのぼり一万年よりも前から日本にやってきた人類が日本の豊かな大自然の恵みなどにより、心も豊かでかつ素朴で争いのない時代が続くこととなった名残でもある点を強調したい考えなのです。

 

もちろん、詳しくお話しするなら、大和朝廷文化の淵源としてのウバイド文明のお話にもなっていきます。

 

バイド文明もまた、争いの無い、争いを収める心的技術や、対話術にたけた人たちの文明であり、

 

それがやがて日本に伝わり、大和政権の中にも入り込み、和の精神を日本に植え付けていったという影の歴史も私は聞いているのです。

影の皇室の歴史と言ってもいいでしょう。

 

こうして、日本の和の魂自体は、二つの大きな源流を持っていると私は思っているのですが、

むしろ惟神の道という総合的日本精神は、

つまり「日本神話」の後の解釈の世界は、

 

古代の日本人たちが、いかに素朴に生き生きと心豊かに生きてきて、考古学上からもほとんど争いもなく生きてきた民族であることが、そのすべての遠因だと考えているのです。

 

皇室の森を愛し、植林を大事にし、日本に多くの懐かしい里山をつくり、明治時代には森林を守る仕事もつくりだし、いつもおだやかな気風をもった魂も、同じ淵源の魂だと思うのです。

 

ユダヤやキリスト教の「アダムとイブ」が

本来の自然な解釈であれば素晴らしい物語であるのに、

後の人たちの解釈が全くおかしなものとなっていったのとは真逆な歴史を「日本神話」が持っているというお話し。

 

きょうは簡単ですが以上とさせていただきます。

 

 

ではまた♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

運命との闘い?

過去のすべては、当たり前の話ですが、

変えることはできません。

 

どんな知恵者も、どんな天才もです。

 

なので、変えることができない「運命」

として「過去」という存在を

わざわざとらえる考え方もあるかもしれません。

 

もちろん、それは別に意味ない^^ということは

論理的には誰でもわかりますよね(-_-;)^^。

 

でも、これ、感性の世界では、

例えば恋人との出会いなどのときに、

 

それは「うんめい」だった^^と感じたり、

感じたかったりすると(-_-;)^^おもうのですす。

 

そのへんは、ここではおいておきま笑。

 

ここは、論理的に、

 

では

「過去」ではなく、

 

「今とこれから」という

私たちの努力で変えることのできる世界での

「運命」との関わり について考えてみましょう。

 

確実に死が誰にもやってきてしまうこと、これは

確かに変えることのできない「運命」ですよね。

 

それとおなじように、これは過去からのものでも、

あなたが知らない間に、この大地に生きていて、

 

今まで生きてきて、

まだ生きているというのも、変わらない「運命」

ですよね。。

 

確率というのもありますが、これもこのへん

おもろいのです^^。

 

車の運転をしている人なら解りやすいですが、

信号待ちをしている場合など

 

渋滞が確実な状態である十字路渋滞のような

状況を別にすれば、

 

信号での渋滞は、必ず、その信号信号で、

一日や、その時間帯での

 

渋滞の車の信号までの数はある確率で

一定していたりします。

 

だいたいですが、この信号は「5台以上は

渋滞しない」といったふうにです。

 

なので、そこで6台前に車がいたとしても

ああ、あそこの信号までだなと直感的に

安心したりゆとりを持つことができるのが

 

確率的に物事を見る見方なのです。

 

車の運転の場合、そういう場面が多いので

気持ちにゆとりを持てる考え方の一つになります。

 

揺らぎはあるわけですが確率も、この場合

「運命」と考えることができるわけです。

 

揺らぐ「運命」です。

 

交通事故に出会う確率、

病気にかかる確率、

人に騙される確率、

 

これらは、避ける努力で大幅に変えることができる

可能性がある世界ですが、

確率は、存在し続け、

 

そのかぎり揺らぐ「運命」ではある世界だからです。

 

そして、実は、

そこまで広げて考えても、

論理的には「運命」とは、ほんとうに

 

人間の力では、

どんな知恵者も、どんな天才も、

 

変えることのできない存在、

変えることのできない人生の流れ

 

そのことを指して私たちは「運命」と呼んでいるはずなのです。

 

つまり「運命との闘い」は、それ自体が

本来、論理的にはあり得ない世界なのです。

 

「運命を変える努力」にしても、全く同じことです。

 

そんなことは最初からありえない^^ことなのです。

 

なのですが、私たちは、その「運命」の真っただ中で

変えることのできないその流れの真っただ中で、

 

ちゃんと息をしたり、このブログのようなおもしろい

ためになる、心の栄養を与えれくれる読み物を読んで

いられたり…、…、している間は^^

 

変えることができる可能性があることは、

どこまでいっても

変えることができる可能性でありづづけている(-_-;)わけですす。

 

よく言われる「運命を変えましょう」という

感覚的なこの励ましは、

別に嘘とは言えないのですけどね^^。

 

だって、これは、本当は「運命内の代えがたいけど変えることのできる部分を、大きく変える法則」をともかくも語らんとしているものだからです。

 

占いも、もちろんあの手相占いも同じくなのですが、その辺少しいい加減だったりもしますよね^^。

 

また円融のココロが運命を変えるとかいうのもけっこう考えると奥が深い「運命を変える」法則であったり闘い方であったりもするわけです。

そのへんは抽象的でありつつ、結構力強い方向性だったりします。

 

でも、時間が無くなったので最後に書いておきますが、

のブログやアメブロの「こ、こげな宗教哲学世界中を探してもあり円」に書かれていることは、

 

そこが具体的にまで追及されているので、いいですよね(^^)/

 

ととと、時間となってしまいました。

 

では、今日はこの辺で♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログ「こ、こげな宗教哲学世界中を探してもありえん」の今後について

すみません、このブログを書いているのはアメブロでです。

 

一年半以上の母の介護の理由でのお休みの後にアメブロに戻ってみたら、何らかの問題で千文字しか書けなくなっていましたので、内容に見合った紙数としては足りなすぎ、それで、追伸の形で筆を伸ばすために、こちらのスペースを使わせていただいているのです。

 

千文字の原因についてYahoo!ちえぶくろで質問してみましたが、答えが付きませんでした?

こうなると、このネット機能音痴、操作苦手老人にはお手上げの状態となってしまうのです。

 

内容は充実したものですので、こちらの読者の方も是非読まれてみてください。

 

では、今日も使わせていただきます。

 

▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼

 

実は、この宗教哲学のブログは、

明日何を書くかさへほとんど考えないで

無計画、かつ即興を旨として書き綴り

つづけているブログなのです。

 

別に悟りとかを開いたわけではなく、

私は普通の人間ですが、

 

宗教哲学を人に語る以上、

考えずにも、気持ちのままにて、

 

この世の中の価値的現象をすべて

ちゃんと、

数百冊になるかもしれないそれとして

まとめてゆくことができるだけは

 

頭の中や心の中がまとまっている

ことをその証明の一つとしたいからです。

 

これは「嘘」ではないですが、

(その証拠^^は、今日26日のブログ

に書いてありますので読んでみてください)

 

そのほうが、頭でっかちな論文にならずに

勢いのあるブログになりそうだ(^^)/

と思えるからでもあるのです。

 

明日からももちろん、そんな感じで書いてゆく

ので目とか、計画とかはありませんが

 

書いているうちに、いくつか頭に浮かぶ未来像は

出てきています。

 

そのうちの一つが、こちらのハテナを使っての

追伸→URL内の記事を書いてゆ事ですが

 

その中身も今のところ、アメブロを書き終わった

時点で考えているのです。

 

フリーエムエルというメーリングリスト、メール

交換論議サイトの、とある哲学サイトを

 

一週間後か10日後あたりに終了予定の今回の

小テーマが終わったのち、

 

軽くその哲学サイトを紹介するページを設け、

さっそくそこでの論議をその追伸→URL内に、

こちらとは別にも掲載してゆくビジョンです。

 

また、Yahoo!ちえぶくろで、宗教哲学関連の

おもしろい質問が思い浮かべば、

 

そこでの質疑応答も掲載してみたいと考えて

いたりします。

 

それらの中身は、即興ですので^^、

私自身もまだわかってないのです^^。

 

私自身も何を私が書いてゆくのか、何を質問し

どのような答えが生まれたり、ろんぎがうまれ

ることになるのか楽しみにしているという

 

そういう形で進めてゆきます。

 

つぎの小テーマはたぶんですが、

「ところであなたは、神は存在すると思いますか」という

テーマとなるかと思います。

 

だんだん宗教哲学っぽく^^なってきましたでしょうか

(-_-;)。

 

でも、その次は「ラブ」、つまり男女の愛がテーマとなる

可能性が高いですすす。

 

やっぱり、こげな宗教哲学世界中を探してもみつからない^^

いうことになってゆくので笑ね。

 

長くなりすぎても、意味ないですし、今日はこのへんで。

 

 

では、これからの「こ、こげな宗教哲学世界中を探してもありえん」をみなさまもぜひお楽しみに♪

 

以上です。

 

 

 

人間はこんなにも深く素晴らしい嘘もつける能力があるのだ(人形劇編^^)

人間だけが本質的な意味での嘘をつける能力を持っている。

 

そしてその嘘こそ、最大の不純でもあり、

時として殺人ほどもの罪ともなる。

 

が、その嘘を人間はつかないこともできる。

 

また、

 

そのもと、となる想像力を生かす方向も追及することができるのだ。

 

例えば、人形劇。

 

人形劇なんて 嘘のまた嘘、嘘だらけだ。

 

ある意味嘘ですが(-_-;)。

 

でもある意味これ本当です!(^^)!

 

まず、人形が話すなんて嘘ですよね^^。

 

話すだけでなく、実際には存在しない物語を

本当らしく演じるための脚本を

 

その人形が演じているわけですからね(^^♪

 

でも、その。

嘘で子供たちを、腹を抱えさせて笑わせ楽しませている人形たちを、だましている罪を犯していると思いますか!

 

違いますよね。

 

そこには不純な嘘は一つもないのです。

 

では、このローゼンという人形劇の達人の技は、その嘘の壮絶な魂は、どうなのでしょう。

 

ローゼンという人形つかいは、あやつり人形の達人、糸で上からつるして操る種類の人形劇の人形使いの達人だったのですが、

 

彼が、ある広場で、大勢の観客を前にその人形を操った時、こんなことが起こったのです。

 

戦争から故郷の村に帰ってきたある青年が、びっこで舞台に登場します。

 

本当は怪我なんてしていないのに、そのふりを演じて。

何てそこまで考える必要はないですが^^。

 

ともかく人形なンで、痛くも、かいくもないですけどね^^。

 

よ、よ、余計なことを書くのはやめておきま笑。

 

彼が操るその青年の人形は、ビっこを引きながら

 

 

ふるさとの懐かしい道を歩いていたのですが、

 

 

なつかしい一緒に駆け抜けて川などに遊んだ友達たち、川辺で一緒に寝転がって話した友達たち、

 

その小道を彼は通り抜けて、

 

その舞台に出てきたのでしょう。

 

舞台上にて、大勢の観客に彼は気が付くの

です。

 

ピタッと止まったとたん、

彼は言います「みんな、死んじゃった」

 

無言でです。

 

ただ、ローゼンは、言葉ではなくて、

 

その人形の青年の手を、

悲しみで震える手を

 

観客にむかぅて、ゆっくりすこしづつ、

 

あげていったのです。

 

悲しみを訴えたのです。

 

そのとたん何が起こったと思いますか。

 

なんと、広場の大勢の観客が、ただそれだけで、

ただ、数センチ

その人形の手が動いただけで

 

全員が、大声で泣き出したというのです。

 

 

全員がです。

 

これ、実話ですよ。嘘じゃないのですよ。

 

 

本当の嘘のお話なのです。

ですが、その嘘にはもちろんですが、

 

不純どころか、価値で光り輝いています。

深く深く奥深く光り輝いています。

 

人間は、

こんなにも、奥深く価値的な嘘もつけるのです。

 

では

宗教は、どんな嘘をついてきたでしょうか!

 

価値的な嘘をついてきたのでしょうか?

 

実はそのへんは微妙です。

 

一部ほんとうに価値的なオカルト宗教すらあります^^。

しかし、方便ですら私は不純がほとんどと思っています。

 

この辺は本当に複雑なのです。

 

「こ、こげな宗教哲学世界中を探してもありえん」というアメブロのほうでは、

「こげな宗教哲学」と検索するだけで表示されるようになりましたし^^、是非読んでいってみてほしいのですが、

 

そのへんのこともすこしづ明らかにしてゆきますが、

 

ここではこんなにも、心を見つめ、技を磨き、

 

これほどまでも深く価値的な嘘の前に

 

その方便は、そのごまかしは、その嘘、、はずかしくなのですか!

 

それこそ、あなたの神や仏に誓って、その真実を嘘をつかずに見つめなおしてほしいと言いたいです。

 

今日は、最後は少し厳しくなってしまいました^^。

 

でもあのスターリン時代のロシアのとある人形劇のプロは、もちろん無神論者だったでしょうが、こんなことを言っていたりします。

「一人の人間は、二人の人間より小さくない。人間を足し算したり掛け算したりはできない。人間は誰でも、みんなと等しく、子供の時から幸福になる権利を持たねばならない。そうなるだろう。世界中でそうなるだろう。今日でなければ、明日。その明日が早くやって来るよう、一人一人がしらねばならないこと、忘れてはならない事、

今日、今、大地が燃えている。

子供たちが泣いている…。」

 

この祈りの魂を、この嘘だらけのプロの叫び

 

やはり問いたい。

 

…。