祈指団弾談

盲目的信仰ではなく、謙虚さのみを唯一の信仰として理解と理解の輪を広げてゆくネット最終宗教

行改正に問題があるためテストテストテストというタイトルに(7日目)

現在の自宅のpcに問題があるようで、いくつかブログを始めるにあたって支障となる問題があるのですが、その中で、昨日からは行改正がほとんど最初からできなくなってしまった問題は、このままではブログをこのはてなでは続けることがでいないという問題となるわけです。それでテストというタイトルに一応しておいて…、

さて試してみますね^^。

 

今のところ問題はありません?

しかし、毎日のようにある程度書いてゆくとその問題が生じてしまうのであれば、これはかなりブログを書いてゆくのにじゃまとなります^^。

さすが今日は、「「ではどうしようか」」^^という記事となってしまいます。

はてなに来ていきなりハテナ^^となってしまった感じです^^。

 

対策の一つとして今朝考えたことは、

最寄り駅の近くにあるパソコン教室でモス対策というカリキュラムがあり、この老人にもそれに挑戦することが緊急に必要なのではと思えてきたことです。

前に進むにも一つ一つの画面や言葉の意味内容が解らなくては、比較したり組み合わせて考えたり俯瞰して方向性を見出したりのすべての反省材料が得られていないということになってしまいますからね。

人間性の普遍の根源を語るときに欠かせない重要事項や精神である反省と前進の魂を語るべき、その「最終宗教」とかを語り始めた私自身がこの状態のままでは情けないですよね^^。

それが老人についてゆけるものかどうかまずは挑戦です^^。

 

つぎに、このブログをこれから書いてゆくにあたって、最初は動画をここに張り付けて出発する予定だったところ、なんと携帯で撮ったそのための動画を自分のパソコンにすら移せなくなってしまったという経過が、このはてなブログでのとある最初の大失敗につながってしまっている問題です。

 

その動画が、「祈指舞」という名前の、フィンガーダンスなのですが、これを張り付けることができればただビジュアルになるだけではなくて、世界一心のこもったフィンガーダンスという今とは違った説明文を入れる事ができることが、ポイントとなります。

当然ブログタイトル名自体も   「祈指舞」弾談

というふうに「団」入らなくなり、代わりに動画そのものを意味する「舞」が代わりに入る形になるわけです。

ただそれだけなのに、キャッチコピーを考えれば180度違うものとなるのです。

しかし、すぐには動画の問題が解決しないと解っていたのに、私の心自体は、何度もすでに書きましたように「もう今までの宗教に対して」黙っていられなくなってしまうような情熱のマグマが爆発してしまったということだったのです。

ブックマークとはという事すら知らないまま中に入ればわかるだろうしと、文章だけにともかく的を絞って書き始めたのがこれ、このブログだったというわけ。

キャッチコピーが最悪であること自体は解ってました。(見えていたということです^^)

 

しかし、失敗もそこで終わらなければ前進の一つでもあるわけですし、とくにその失敗が見えていてそうなってしまった場合、大逆転はすぐに可能となっていくわけです。

 

まずは、そのモス対策の学習で得られる仲間から、このpcの問題や(ほとんど見えない画面が出てきてしまう問題などのことです)動画貼り付けの問題などについての機能面をなりふり構わず聞いてみることだと思います。

 

おっと、今日はまだいつもの行改正の問題は生じていません^^。昨日のような状態を覚悟して「テスト、テスト」と書いて書き始めたので拍子抜けです^^。

書きたくてもとても書けないと思っていたことも書いていってみましょう^^。

このブログの内容の説明の中には何度も最終宗教とかとか「宗教」という文字が出てきますが、これはそのコンセプトの中に「「何事であれネット時代には方便も含めて嘘そのものを交えない」」という軸があることで、書くにあたって、動画での表現を抜きにするなら、その最悪のキャッチコピーをも覚悟するしかなかったということです。

それを最初の説明にする必要は、動画があれば無くなります。

内容にはその責任はある内容なのですから、宗教の宗の字の意味するネット時代のこれからの人生すべての指針にあたるものを書き切ってゆく責任を引き受けるつもりです。

これで、逆に言えば、表向きは今までの宗教を批判する形も避けられます。

そのまま、いつしか気が付いたらどの宗教の人も本来の宗祖の考えに沿いながら真実の和の輪に心づいているという未来への筆を思いきりすすめることができましょう。

和こそが目的なのですから、そこへの過程もまたできうる限り穏やかな和に満ちているに越したことは無いわけです。

想いは必死ですし、パッションはマグマままにて、これがこのブログの真実なのです。

 

ま、まだ、大丈夫ですね。

始めてこの辺りまで書いても「行改正」の問題が生じていません^^。

でも長くなりましたし、今日はここまでとさせていただきましょう。

く、くじけそうになったというのに^^

 

問題の渦中の真っただ中で、こんな偉そうなことを言うのは、普通の人間のくせに、おこがましいでしょうが、最後に

今日も有意義なメッセを一つだけ、

「倒れない人が強いのではなく、倒れて起き上がる人が強いのだ」と若い頃聞いたことがあり、そうなりたいなと思い続けてきました。

ドクター中松というアメリカでは超有名な発明家は、発明の過程を必ず最初は失敗するものだという事を語っています。

調査と挑戦は二度するのが発明精神のコンセプトの重要項目となっているのが面白く、また奥深いところだと思います。

 

私はこの「はてな」に来ていきなり前のめりにブッタオレました^^。

がそれは、それぐらい勢いがあったということでもあるわけです

 

 

おっと、ここで、きょうの行改正の問題が発生してしまいました^^。今日はこれにて以上とさせていただきます^^。では、お互いへこたれずにまた明日♪

 

 

 

サルと人間の違いは 前に進むことができるかどうかだ。(5日目)

というタイトルにしました^^。

今日は、

このプログ本来の内容を中心に続けます。おっと今日はここから行改正ができない状態となってしまいました?今日は日曜日ですが「ブックマーク」を調べる時間が取れなかったところ、それどころではないpc問題がいきなり出てきてしまいました。この形のままではさすがに「はてなブログ」を続けることは無理なのかな?とふと、今弱気になってしまったところです。そうそうこれだけ書いておきましょう。上の今日のタイトルには「人間なら前に進むことができる」と書いているのに何を弱気になってるの?と言われそうなところでしょうからね^^。人間がサルから深化した時にそのサルの脳にはどんな変化があったのか?という事なのですが解りますか?本当はこの進化の過程を書いてゆくとかなりの紙数が必要なところなのですが、一番重要な点は物事を見つめる能力がサルの中に宿るようになったという点なのです。「見つめる」ことが出来るから、物と物を比較していいものを選んだりして反省という機能が脳に加わり人間は進歩という価値を手に入れてきたわけですよね。本当はこのあたりのことで一番人間にとって大事な点は、感じる世界をも見つめる能力をむしろ太古の人たちのほうがはるかに持っていた点なのですが、それを書きだすと最低何日分のブログ内容となるので、ここでは「「反省し進歩できる」」という能力について、軽く補足しておきたいと思うのです。比較するものが見えるからこそ、その違いを考察してその、繰り返し反芻するようにして何が正しい答えか見えてきて、判断と反省とかが可能となり、そうして初めて人間は進歩という宝物を手に入れたというのが、簡単に言えば私のその辺の考えの主軸なのです。今日もpcのこととなってしまいますが^^、pc理解がこの68歳の老人にとって進みにくいのは、あるいは進歩が遅いのは、比較する以前に、一つ一つの画面の中身の意味が見えてないため、考えようも進みようもないためです。基本をどこかで学ぶ必要があるという推理はごく普通に考えれば解りますが、その時間が効率的に取れないため、もちろんその努力はしていますが、こうして今の今このハテナでの問題を解決できないでいるということです。すみません、こんな行改正のできない状態での文はこれ以上は読みにくいでしょから、今日はここまでとさせていただきましょう。今日、それなりに書きたかったことは、人間の感性の部分、それさへ「見つめる」ことが出来るようになり、それさへ進歩できるようになれば、宗教の宗、つまり人間にとっての本当の普遍的根本、人間の指針、生きる目的が見えてくるということです。そして人間であれは絶対その真実をどんな誰もつかむことができるはずなのだという点でした。今日はこんな形になってしまいましたが以上とします。

 

 

 

4日目のはてなブログ準備格闘^^

とうとうこんな形の出発^^になってしまいましたが、

今晩もやはり、

例えば、このいま書いている画面自体がよく見えません。

指の形の矢印を合わせると太字となる部分も、そノ一に合わせてみて初めてBの文字が何とか見えるといった状態なのです。

それ自体はなんとかなるのですが、

このあまり自由時間の取れない生活の中では、この出発はまずはこんなふうになってしまいます。

今日も最後は読みに来てくださった方に有意義と思われる今までの続きをつづけてゆきますが、

少しだけ、このネット音痴老人の格闘状況ももう少し続けさせていただきましょう。

 

91歳の母親の介護生活のために2年ほどプログ活動を休止した経過があるのですが、それまではfc2、ライブドア、アメーバなどいくつかのブログで例えば「骨太スポーツブログ」などというタイトルで別なことを書いていた者なのです。

 

心の舞踊家を自任していましたので、スポーツに詳しいというわけでもなかったのですが、リズムや表情の点からスポーツに切り込むそういう記事を書いていたわけです。

 

ですが、長い間プログを離れていて、親の世話に打ち込んでいた間に考えも進み、

また、親の体力も奇跡的に快復してきましたので、ここに少しの時間のゆとりが生まれることとなり、

また筆を執る気持ちになれたというわけです。

 

まだ自分が生きている限り、これは存在から与えられている使命を私は感じるのです。

この生きている命の中にです。

 

そして、活動が可能な限り、もはや黙っていられなくなったのが宗教のふざけた態度の世界についてなのです。

ふざけた、と書きましたが、それは憤りというよりも、はっきり言えばあきれ果てたという感じでもあるのですが、

(その世界に触れて何度も悲しくなって泣いたこともありますしね)

でも、その盲目性もまた、同じ人間の心ですよね。

今は、これを書き始めた勢いで自然にこんな書き方になっていますが、そのような人たちの心に対しても、

ほんとうはできうる限り、

時にはオブラートにつつみ、

時には麻酔かけ、

痛みや傷を減らした形で、しかして真実は語る必要もある、というスタンスを貫こうと考えていたのです。

 

はてなブログを今回選んだのは、急いでネット上のブログ比較を読んでみていて、ブックマークというのがあり、書いた中身がすぐれていても今では埋もれるかのせいもあるところ、はてなブログではそれがないという事が書いてあったため、

 

ともかく急いで書き始めようとしていた私には、ならまず中に入って見よう、開始してみようということになぅてしまったというのが事の経過だったのです。

 

中に入ってみて、ブックマークについて書かれているところは、このパソコンからは見えないのか、そのへんが薄すぎる形になってしまってるのか?まずは見つかりませんでした。

 

また、実は今の書き方ではなくて、私自身のダンスィングの動画を張り付けた形で出発しようと思っていて音源などを工夫していたのに、もちろんまだその張り付け方法が解らないままですし、

それどころか、プロフィール写真もいろいろ試しているうちに消えてしまいそのままとなっている始末です。

 

ブログタイトルも、こんな追い込まれてしまうようなゆとりのない状況下似て、一気にコンセプトを詰め込んだだけのわかりにくいものに決まってしまったという形^^なのです。

 

祈指団弾談、このタイトルには確かに、これから書いてゆく生きていれば数十年分のすべてが詰まって入るのですが、解りにくいだけでなく、これですと検索の方からも、例えば「祈指」とすら検索する人は確率的にもゼロに近いわけですよね。

 

しかし、そこを私は、はてなにはブックマークがあるのだから、文章に今はともかく集中しさへすれば大丈夫だと考え、そのまま情熱をぶつけ始めようとしたということなのです。

今日初めて朝方少し時間があり「はてなのブックマークとは」とヤフーで検索して、それはそれで登録して始まる何かであることを知りました。

 

おっと、今日は時間が無くなってしまったようです。

 

 

 

また、理由はわかりませんが、これもこの自宅のパソコンのせいなのだろう原因で、この辺まで書き進むと行と行の間をどんどん開けてゆかないと次を書けなくなってしまう変な状態が訪れてしまいます。逆に書き続けるには行を詰めるしかなくなるわけです。ここは、昨日の私の身の上話^^続きは明日に回させていただきましょう。サリバンや私が子供の頃体験した気の触れた状態は、人間の脳の中から知的には物事を見つめ、反省するという能力が奪われた状態、動物の脳の状態と近い状態という事が書きたかったのですし、だからこそその体験が真逆に、どんな状態のどんな人間であれ人間の普通の意識さへそこにあるならだれもが真実の光をつかむことができる可能性を持っているという確信と直感が生まれてきたのです。ヘレンケラーに言葉を教えることができたのも、同じ人間の人間への深い信頼があったから。という結論の下り、もう少し詳しく明日は書いてみますね。

今日は以上とします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どんな

 

 

 

 

 

いきなりネット機能音痴老人が、ハテナに来てblogを、3日前から始めてしまったわけですが、

実はパソコン音痴に加え、

グーグル地図が私のパソコンからはほとんど見えない白紙の状態なのですが、

それと同じようなうっすらとしか見えない画面上でなんとかかんとかこれを書いています。

他の人もそうであれば「はてな」の問題となると思われますので、これは私のパソコンの問題でしょう。

 

あらためてプロフィールを書く場所も見つかったのですが、まだ反映されていません。

また右上のその場所?には、別なところに書いたはず?の文が載っています。???

 

ここは、やはり、もう少し右往左往してみた後に、さすが最初からすべてを編集し出発しなおした方がよさそうですね^^。

 

情熱を重視してあえて無計画な即興の筆をこととして始めたものなのですが、

カテゴリーの有意義さはわかりますし、

むしろ先に行っては大いにそのへんを変革してゆくつもりではいます。

でもそれですと、すでにまずタイトル?のあたりが使い方が間違ってますね^^。

 

ここは、それなりの内容のものは続けながら、正式に始める前に実験に次ぐ実験、たくさんの失敗もしておく体験が必要のようです^^。

すでにこの画面自体が変なことになってます^^。

下にスクロールするために左端の黒い長方形^^が動かないのです。

これ自体やりなおしかも^^。

 

一応コピペしておいて、だめなら再挑戦ですね^^。

 

一応、今日も続きとして、もし読まれている人がいればそれなりに有意義であれますように、

「祈指」につながる簡単な自己紹介を続けておきましょう。

 

 

これはプロフィールでも、さきほど自由欄のようなところに少し記した内容でもあるのですが、まず今日はここから書き始めてみますね。

生まれつき盲目で耳も聞こえないヘレンケラーに言葉を教えたサリバンのお話は聞いておられますよね。

私自身はその有名な映画を観なかったのですが、

サリバンという教師が子供の頃、一時気の触れた状態となったことのある人であることを聞いています。

実は、私も、

とある都会の小学校でとある先生からのいじめによる恐怖症から神経がおかしくなりはじめ、やがて通学電車の中で2度ほど気の触れた状態にまでなぅてしまったことがあります。

それは意識を失った状態ではなくて、本人はむしろはっきり覚えている記憶になってますので、私にはそういう時の意識の世界が実体験として理解できることになったわけです。

ここでは、その最初の「あちら」^^のお話しをしてみましょう。

私は突然、電車の中の人たちの足をぼんぼん踏みつけながら走り回り始めたのですが、

ともかくその意識の状態は、まったく普通の状態の意識ではありませんでした。

 

2回目も詳しくお話しすると解りやすくなると思うのですが、それは動物が恐怖におびえてる状態の脳内の意識とも言えるものだったのです。

その間は苦しいわけでも何でもなかったのですが、それが

はっ!と気が付いた時がみじめでした。

今自分がどうなっていたのか、ちょうど解る年頃でもあったからです。

詳しくお話しすると物語みたいでおもしろいところなのですが、

 

ここでは、その状態の記憶だけもう少しお話しておきます。

 

 

今となっても忘れられない鮮明な記憶の世界の一つです。

 

 

まず、ほとんどの人が私を「見て見ぬふり」をしていたのを想い出せるのです。

そしてさらにリアルな記憶なのですが、ただ一人だけこちらの目をのぞき込んで笑いかけようとしていたご婦人がいたのですが、その笑いかけようとしていながらひきつった顔さへ想い出せるのです。

 

おそらく動物の意識や脳にも記憶があるようにです。

 

 

 

すみません、ここまでで、昨日も書いているこの場所がおかしなことになってしまい、今日はさらにひどくなってしまいましたので、途中ですが今日はここまでとさせていただきます。では、こんな状態ですが、まだなんとかハテナをクリアーする挑戦心は消えてませんので、明日も、この続きを除きに来てみてください^^。笑い事じゃないですけどね。ではまた明日。

 

 

 

 

ザ・ネット祈指団弾談

昨日から書き始めたわけですが、私がかなりのネット音痴老人(68歳)であることを隠せないことになってるな^^と思いました。

 

はてなblogを始めようとして画面を開いたらまずブログを書く画面となり、ともかくそれを書いてから、デザイン等を後から編集していったのですが、

まずプロフィールを書く場所が見つからず、やっとそれらしいものを見つけてなんとか書いたところ、それがどこに表示されるのかもわからず、ブログに反映できないでいます。

 

多分、昨日の文は削除して最初からやり直すをいうことはできるのでしょうが、これを書き始めるにあたって「もはや書かないではいられなくなって書き始めた者」として情熱のままに即興で書いてゆくと決めていましたので、昨日の文からの出発はそのままにしておきます。

 

しかしそのままづつける前にプロフィールは必要だと思われますので、超簡単にですが私のプロフィールを綴っておきましょう。

 

 

現在私自身は68歳で、91歳の要介護5と認定された母と暮らしている身の者です。

 

今のところ何度かやり直しているのですが写真の張り付けもうまくいってません^^。が、

ともかく、になってしまっている写真のこの男性が私です^^。

子供の頃幾つもの要因が重なり(事実は小説よりも奇なりを思わせるところなので今後詳しく書いてゆくことにもなりますがここでは略します)何度も死の淵をさまよい、虚弱児施設にて救われた人間、

運動を工夫することで何とかここまで生きながらえてきた人間でもあるところなのです。

なので下手するといわゆる老老介護に陥りそうにもなるところ、体にはさらに気を付けているところです。

 

本当は、こんなことを始めるに至った人間ですので、そこに至る経緯などのプロフィールとなると本数冊書いても書き切れるものではないと思います。

なのでここは、あと一点だけ。

 

確かに下の世話は必須ですので多少大変なところはあります。

 

ですが、家族に信頼関係があれば(実は私の家族にも「家族病理」といえるような問題もあったのですが、それを克服してのことと考えてください)介護する側の体さへ健康であれば、拍子抜けするぐらい楽なおしごとでもあるのが介護です。

 

これが少しでもわだかまりがあったりすると、それがちょっとしたことで膨らんでいったりして、神経からやられてゆく介護地獄の世界はいろいろ想像されます。

 

ですが、体験してみてやはり心の問題さへクリアーすればその地獄も天国に変わるという事が言えると思っているのです。

 

実は、おかゆすら一日に一口、水分さへほとんど飲めないような状態から始まった介護だったのですが、今ではちゃんと食べられるようにもなり、車いすなしでも介助すれば歩けるまでに回復はしてきているのです。

 

そして何よりうれしいのは、例えば

朝晩熱いタオルで体を拭いてあげているのですが、その時思わず「ああ気持ちいい」と言ってくれたりすることや、

一日の最後に「おやすみなさい」とハイタッチして挨拶する時などに見せる心の底の安堵の笑顔だったりするのです。

 

私自身もそんな時にこそ最高に幸せを感じます。

 

ここでのプロフィールとして最後に言っておきたかぅたのはその一点でした。

 

昨日も少し触れましたところの「普通の生活の中、その奥にこそ人生の答え、人生の目的が見つかる」という事を、呼吸の奥から感じる瞬間がここにあるのです。

 

現代人は幾つもの心の病理にも侵されていますが、そこを克服しさへするなら やはりあまりにも普通の家族や恋人や友達関係の中に人生の目的が見つかり、そこに人生の答えも見つかるのだというのが私のこのブログの出発の情熱の火ともなっているということです。

 

詳しく言えば、昨日触れました相模原の殺人事件の犯人の言う「重度心身障碍者は生きる資格はない」という考えの基ともなっている「優生主義」は、病理とはまた別な因果と問題を私たちに提起しています。

なので「優生主義」におけるそのへんの問題は、また別に深くことを解きほぐしていきましょう。

 

ですが、それは哲学としてはあくまで人生の本当の目的を見失った姿にほかなりません。

重度心身障碍者であろうと、それをいたわり介護する手の中に 幸せを祈り つらさを共感し、時には苦しむことの中にすら、

それそのものの中にこそ私たちは人生の本当の目的を見つけることができるのだということなのです。

 

もし、その目的感が大勢の人の中で確かなものとなったときの私たちのその目的への団結の力和の力は巨大ですよ。

 

このブログはやがてそのことを明確にしてゆくことが目的で書き始められました。

 

それをどんどん弾丸のように書いてゆくプログなので団弾談^^としているわけです。

 

おっと、今日の予定では「祈指団弾談」の「祈指」について書く予定だったわけです。

 

ですが、プロフィールの関係で、ここまでですでに長くなってしまいましたので、その予定は明日に回させていただきましょう。

 

キリストにしても仏陀にしても、多くの教祖たちは、私の推理では同じ「人生の目的感」をこそ語らんとして人たちです。

 

そこにお互いが争うような因果は本来なかったはずではないでしょうか。

ネット時代が来ました。

私のようなネット機能音痴の老人ですら、右往左往しつつも市民の一人としてネットをなんとか利用できます。

もはや、権力などを生み出す組織化は不必要です。

 

理解と理解の輪を広げてゆけばいいだけなのだと思うのです。

 

最終宗教、私が始めて行ってみましょう。

 

ではまた、明日♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザ・ネットネット祈指団弾(普通人からの最終宗教創設または逆宗)

 最終宗教創設だなんて、異常に「だいそれて」いますよね^^。

でもこれは、これから弾丸のように書いてゆくことへの 書く者としての責任からのつもりのものなのです。

そこまではっきりと言い切るのでなければ、このタイトルは意味を失うと思います。

である以上、

どんなにこれを怪しげだという印象で受け取られようと、

どんなにこれを批判したい心が大勢の人の中に生まれようと、

すべて受けて立つべき内容でしかないと割り切るしかないと思うのです。

 

でもよく考えてみてください。ちゃんと考えてみてください。

 

今までの宗教への疑問は、すでに大勢の人が本当は心の奥では薄々かもしれなくても解っておられることでもあるのではないでしょうか?

ただ単に口に出すほどは明確でないというだけなのではないでしょうか?

 

《最初の一歩さへ誰かが踏み出せば、どんどんご自身でそこに必須の明晰性をつかんでゆけると思います。

その最初がたしかに難しいのですけど^^、その辺は後々書いていくことにしましょう》

 

ともあれ これを書き始めるきっかけの一つとなったのは、神奈川県相模原市の重度心身障害者施設でしたか、そこでの「意思疎通もできないような迷惑なやつらは殺すべきだ」といった理論の発言とともに行われたその実行の心の世界に対して、

命と心の目的を教えてくれるはずの宗教家が誰も「それは、これこれこういう理由で間違ってる」というメッセージを語ってくれなかったことです。

 

家内安全商売繁盛^^、私たちの切実な生活やお金の部分のニーズを科学の時代に「幻想的希望」に取り込んで…、

いやこのへんは伝統慣習となっている世界ですので、私もお茶を濁して、このへんにしておきますが^^、

 

問題は宗教本来の役割はどうなっているのか?ということです。

 

まずここを明確にしましょう。

解らない事を解るというのが本来の宗教の教祖たちの主張ではなかったということです。

いきなり難しい書きとなってしまったかもしれませんが、

ここは重要だと思います。

解りえない事(死後の世界とかのことです)を自分たちだけは解っていると頑なに信じることが、教祖たちが意図した信仰の世界だったのでしょうか?

私は違うと思います。

この与えられている命の中で、必死にむしろ健康な心で健康な心について考えることの奥にすべての指針を見つけ出してゆくべきだというふうにです。

詳しくは後々に書いてゆくこととなってしまいますが、私の場合はそのために一度絶望の淵に追い込まれました。

これって半端なことじゃないです。

実際にそのために血を吐いたほどなのですが、

何よりもそれ以後真実についてはもう何も考えることができなくなったということでもあるのですよ。

それから30年以上の年月を経て、

ではなぜこれを書き始めたのか?

 

答えはあったからです。

 

ですがそれは、あまりにも普通の身近な生活の中、その奥にあったのです。

 

神秘的な幻想とかの中にではなくて、

こ難しい宗教哲学とかの中にではなくて、

 

実際にはその心の深さを私たちに証明してくれるのではないのに私たちには解りえない深さだと悟りを誇示して語る嘘か方便の語り口等とは無縁に、

しかして確かに時空を超えた形で、

 

生かされている命そのものの中に、当たり前の生きていることそのものの中、その答えはあったのです。

 

もう書き始めざるを得ない突き動かされるパッションとともにそれがこれからこのプログにて 答えとなってゆくのでしょう。

 

弾丸のように、書いてゆきますね。

 

タイトルでは「祈指団弾」というふうになってますが、その≪団≫についても初めに書いておきましょう。

 

ネット時代なのですから、組織は必要ないです。

理解から理解への輪がそこにあればそれが伝道となってくれますからね。

なのになぜ「団」名付けたのかというと、それは、

貴方が、あなたの命の場で、本当人間にとっての大事な目的のためにチームを組んでその「「和」」を高めてほしいからです。

 

本当に人間的な目的のための団結、チームワークを表す≪団≫なのです。

 

このブログはその「「和」」が目的なのです。

 

戦争や争いをこの世からすべて終わらせる「「和」」こそが目的だからです。

 

それが、「団弾」というタイトルとなってるのですが、詳しくはそのうちにということに…。

 

最初の日の今日はここまでとして、「祈指」というタイトル名については明日に回します。

 

さあ、いよいよ書き始まった人生の答、ザ・ネット最終宗教、これからどうなってゆくのでしょう。

 

私自身にもわかりません^^が、私自身も楽しみな気持ちはあります。

今日は以上です。