祈指団弾談

盲目的信仰ではなく、謙虚さのみを唯一の信仰として理解と理解の輪を広げてゆくネット最終宗教

神という概念について

神は人間の作りだした幻想なのか?

 

このテーマは、

ブログ「こ、こげな宗教哲学世界中をさがしてもありえん」

の本文の中でも、

 

次の次の小テーマで扱ってゆく予定のテーマです。

 

しかし、この「追伸」の中の形にても、

 

別文で追いかけておきましょう。

 

本文の方は体験をもとに徹底的に面白くかつかみ砕いたわ

っかりやすい読み物にしてゆくつもりだからです。

 

そのへんは本文をどうぞご期待ください(^^)/

 

 

よく、神の存在の証明とかで、こんな説明を聞きます。

 

雲の上からのロープに吊るされた籠の中に私たちが生きていると

最初に仮定しておいて、

 

私たちが生きていられるのは、籠とロープのおかげで、

 

それなしには落ちてしまい、地面に叩きつけられ命を失ってしまうところ、

 

ちゃんとこうして生きていられるという事、存在しているという事

 

これは、こちらからは目に見えないけれど、

 

雲の上からの神の支えがあるからだ。

 

神は見えないけれど、こうしてその存在の推理はできるのだ。

 

というふうにです。

 

これおかしいと思いませんか^^。

 

そんな仮定をしなくても^^、

 

ちゃんと私たちは、この大地に生きているので、

 

最初のたとえ自体がおかしいからです。

 

 

籠やロープ無しに大地に生きているのに、

 

仮にロープに吊るされた籠を持っている神を仮定した場合には

神なしには確かに籠もその中の命も落っこちてしまうわけですが^^

 

そうでない場合にはなりたたないのでは、神の存在の証明には

ならないわけです。

 

 

ですが、これは、その逆も言えるのです。

 

その論理がおかしいからと言って神のいない証明にもならないこと

も、真実です。

 

答えは、「それは人間には解りえないこと」。

 

論理的にはそれが結論となるのです。

 

 

私たちは、いつしか気が付いてみたら、この奇跡の星(水がこんなに豊かに

豊かに定着した星は、宇宙中探しても見つからないかもしれません。ほとんどが

 

ガス状か、火か岩石ばかり、からからの生物の住めない砂漠状態ばかりの星々)

に生まれていて、

 

こうして命を得ている、不思議な命どうしであるわけですよね。

 

こうして書いている私も、これを今読まれているあなたの命もです。

 

そして、そのこと自体は、無神論者も無神論者も全く同じなのです。

 

 

なぜ、ここにいるようになったのか、これ自体も、まったく「わかりえない」

事の一つ。

 

この「わかりえない」ことは、実はけっこうたくさんあったりします。

 

 

神という概念も、そのうちの一つだということなのです。

 

なので、そこを解ったというごまかしを信仰とすると、

 

当然無神論の人との対立が起こり、時として争いすら生まれてしまう

わけです。

 

本当の信仰は、そうしたごまかしを必要としない心に生まれます。

 

仮定を仮定として理解したうえで、

 

それでも、人生をいろいろ経験してゆくうちに心に見つけた希望の光と

して、心づくものが本当の信仰だと私は思っています。

 

では、神という概念の当体は、人間の想像力が作り出した幻想なのか!

 

と聞かれたら、私ならこう答えます^^。

 

神とはこういう存在だと言ったとたん、あるいは思ったとたん、

それは幻想という名で呼ばれるものとなってしまう^^のだ。

 

というふうにです。

 

「解りえない存在」を、「これはこういう存在だ」と規定したら、それは

嘘か、ただの思い込みに過ぎないわけですからね。

 

例えば、それを唯一無二絶対と規定したところで、同じことです^^。

 

 

それは、幻想、人間の側からの勝手な、必死なかもしれなくても

勝手な^^、思い込みとか嘘でしかないのです。

 

神は死んだとか言いますが、それもほんとは「解らないのですから」同じ

穴のむじなですけどね^^。

 

解らない事、不思議な事は、普通に当たり前に知られていることの中にも

たくさんあります。

 

何も超常現象とか^^出なくても、それよりもはるかに不思議でまったく

解らないことがらがです。

 

「私」自身(あなた)自身の存在について、考えてみましょう。

 

あなたのお母さんから、同じ顔の同じ性格の人が生まれたからと言って

あなたご自身は、この世に存在していなかったかもしれないのに、

 

今、お母さんから生まれ来たって、長い間生きてこられて、

 

たった今、これを読まれている^^わけです。

 

なぜ「私」は、なぜ「あなた」という存在は、

 

今「ここ」に生きているのだろう?

 

 

これ自体はどんな科学者も数学者もと消えない事実の世界なのです。

 

こうしたことは、まだまだあるのです。

 

命は、ほんとうに奥深い不思議でできていたりします。

 

そして、解らないことは解らないままでも、

 

ちゃんと感謝なら感謝はできるようになっていますし、

 

(母親にも、祖先にも、ありとあらゆる命の努力にも、

その努力なしには「私」がこの大地に居ないこともまた

解ることですからね)

 

その不思議の世界に、驚くことも、

 

与えられた大地、大自然を感じることも、

 

人間が争わない幸せがどれだけ尊い時間かということも、

 

そう、ありとあらゆる価値を見出すことはできるのです。

 

解らないことを解ったと言ってケンカするのは、

 

もうバカバカしいだけなので、やめましょう!

 

それよりも、

 

解るという能力を与えられていることを感謝して、

 

解ることをもっともっと、具体的に追及してゆきましょう。

 

その向こうには、絶望もあるかもしれなくても、

 

それでもなお、価値が見えてきますよ。

 

それでもなお、生きることには光が、希望が見えてきますよ。

 

 

と叫ぶのが、訴えるのが、語りかけるのが、

 

 

それが宗教哲学の世界だと私は思うのです。

 

それは、幻想の世界などではないですよ^^。

 

今日は以上(-_-;)(^^♪です。

 

高所安全対策用はしごの構想

役立つことは宗教ではないのでしょうか?

 

命や、その保護、介助、幸せにとって、役立つことは、むしろ

命の底からの願い、人間として生きていて人間に与えられた意識の底からの祈りの結実を意味する、切実な概念、

 

宗教がそれと対立でもしているかのように抽象的な言説で終始しているのはむしろ何か変だと思いませんか?

 

もちろん、現実の変革を目指した宗教家たちは歴史上にもいます。

 

しかし、今ネット時代にこそ、そのへんはより明確な明晰性と具体性を持った祈りとしていくべきなのだと私は思うのです。

 

今日は、アメブロの「こ、こげな宗教哲学世界中を探してもありえん」というブログの最初のテーマ

 

「ところであなたは、高所恐怖症の治し方を知っていますか」シリーズを受けて、

 

高所安全対策用はしごの構想

のお話をさせていただきましょう。

 

 

高所恐怖症がどれだけ本人たちにとって切実な問題なのか

についてはアメブロの方を読んでみてください。

URL⇒

ameblo.jp

 高所恐怖症であるにもかかわらず、設備業などではしご作業を

しなければならない人たちのためにも、

 

私は、こんな、はしごを考えてみました。

 

一番危ないのは二段梯子の上部に立っての、作業だったりするのですが、

 

高所恐怖症のとき、私自身こんな体験があります。

 

二段梯子の上の方で、ドリルを持っての作業を頼まれたのですが

「下でおさえてているから大丈夫だ」とのことなので、

怖かったのですが^^死に物狂いで、

なんとか作業をしていたところ

 

ふと下を見たら、その人が

いません??

 

?

 

 

もうだめでした^^。

 

おそる、おそる、おそるおそる、

梯子を下りて

 

やっと地面についた私は、そっと逃げ出して

いたのですすすすす。

 

危ない目には山ほど遭遇していますが、特徴的^^

なので記しておきました。

 

では、そんな時にも、こんな梯子(はしご)があれば、どんなにか

安心して作業ができるでしょうか。

 

という梯子(はしご)を考え付いたことがありますので

公開させていただきましょう。

 

 

こちらでも、大体の仕組み程度の事しかお話しできませんが、

それはこんな構想なのです。

 

普通の二段梯子も重いので、持ち運びの問題があり、

それを解決するための車輪の脱着可能な梯子が、

その前提としてあると考えておいてください。

 

作業する場である上部が重くなるので、よけいに

 

運んだり、設置したりするのが大変となってしまう

案なので、その辺をクリアーしておく考えであるわ

けです。

 

ですが、同じ軽量のアルミで、その安全性の確保は

可能となるため、極端な重量となるというわけでもな

いのです。

 

まず、はしごを3メートルほど長くします。

 

しかし、その上部を使うということではないため、

 

上部の部分は、はしごのだんだんの構造ではなく

別なそれ用の構造とすることが可能であるわけです

が、

 

梯子を壁に立てたときに、はしごの下の部分の壁との

間に、上から人の背の高さの3角形ができることに

気が付いてほしいのですが、

 

これは、はしごの頂点に軸をつけたアルミのバーを

両側に取り付けて、

作業時に、垂直に下すだけでいいという構造のもの

なのです。

 

この下した左右のアルミのバーは、もちろん、

梯子との間に、アルミの作業台を括り付けることが

できるようになっている、という構想。

 

上部の3メートルは、その作業台への通り道にもなって

る形なのです。

 

だいたいの形解りましたでしょうか?

 

ちなみに

 

私は之で特許を取るつもりはありません。

 

 

明王ドクター中松については、上記紹介のアメブロのバックナンバーで

詳しく書いていますが、

 

ドクター中松も、特許を取らないあり方や方法とかを説いておられるのです。

 

それとは別な意味でも、私はこの構想を梯子の会社の方に提供するつもりです。

 

まずは、こちらのブログを読んでいただこうと考えているのです^^。

 

ほかにもいろいろ安全対策用の梯子の構想はあるのですが、一番解りやすく説明のしやすかった構想を書いておきました。

 

ドクター中松の発明精神にも人への愛情という部分は大きいです。

しかし、彼の、普通の人とは目の付け所が違う天才的発明のためのひらめきや、発想転換法は、まさにその道の天才のものだと思うのです。

 

私のは、構造も簡単すぎるほど簡単で、ほんのちょっとした発想転換、普通の人間で十分思いつく発想でありひらめきでしかありません。

 

ただ、体験や愛情は、あくまで普通のそれではあっても、一番対峙なところと思うのです。

 

ほんとうに、普通の愛情でいいのです。

でも、何か崇高で神秘的などではなくても、

 

 

ちゃんとあたりまえに、具体的に役立つことを

必死で考える、そういう人間性が、

 

私という普通の人間は、はるかに宗という人間の

 

普遍的祈りの世界に近いのではと思います。

 

もちろん宗教組織も問題ではありません。

個々人の自覚としての宗教の祈りの世界のことです。

 

ドクター中松は、そのへんを「個人宗教」の夜明けといった表現で語られていたりします。

 

まさに,賢主主義を掲げる自ら賢人にふさわしい方なのだと思います。

 

人間としての目的を忘れたただの優生主義とは別質の基と考えてください。

 

もう一度言いましょう。

人への愛情が、私たちの共通項です。

 

 

また、そうあるべきなのです。

 

今日は以上です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今は、こちらのスペースを活用させていただきます。

今は、アメブロで「こ、こげな宗教哲学世界中を探してもありえん」というブログを書いていて、

介護生活の中で書いているため、こちらに正式のブログを書いてゆくゆとりは、今はないのですが、

アメブロの方でも、

私のパソコンの何かの問題で、行改正や、紙数の問題が起こっているため、

こちらで、補充の内容を書いて、そのURLをアメブロの「追伸」に載せる形をとって進めていこうと思っています。

(一日分千文字しか書けないのでは、内容に対して少なすぎるためです)

 

この「祈指団弾談」の出発でも動画を張り付けて出発する予定だったところ、

いろいろpc無知であることから問題が発生していたところ、

 

いざアメブロに移る時にはだいぶ解決していたはずなのですが、

 

なぜか、ユーチューブにアップすること自体ができませんでした。

 

そしてとうとう、アメブロでも動画なしに出発したのが

「こ、こげな宗教哲学世界中探してもありえん」

だったところ、

 

準備期間として最初にアメブロに書いていた部分にその当時の様子を書いていたのですが、

 

では、いざそのブログを開始したのち、動画の方はどうなっているのか?

 

今日は、その辺を少しだけ書いておきます。(書かせていただきます)

 

ЖЖЖ

 

もし、何事もなくyoutubeにアップができていて、公開されていたら、もしかしたら大変なことになっていた!とも思えてきています。

 

というのは、しばらく指ダンスの練習すら休んでいるにもかかわらず、

しかも、いつもならそうとう効くはずのリハビリ体操も毎日続ける中、

いまだに、左手にはしびれが走り、

左指を動かすとこわばりと痛みを感じる状態だからなのです。

 

ここは、これを機に、徹底して治してから、

撮影もやり直し、

(今まで撮影したものでは一つしか、まともにソウルの入った動きのあるダンスはできていません。  思いっきり動けていないからだと思います)

動画に関しては、すべて再出発しなおす形にしようと思っています。

 

「ラブソウル・ポエム・フィンガーダンス」の動画としてです。

 

書くこと自体にはそれほど時間がかからないため、こうした文章での活動の場は広げられるのですが、

 

PC音痴には、そうでない人から見ればじれったいほど時間のかかることがあり、

 

Yahoo!ちえぶくろで質問してゆけば、おそらくyoutubeに公開できなかった理由とか対応法も見えてくるのでしょうが、そのへん

 

こんな形で遅れることになっていることを、ここにご報告させていただくことにした次第です。

 

今日のテーマは、このご報告のみとなりますが、

 

こちらのはてなで「こ、こげな宗教哲学世界中を探してもありえん」の、アメブロの紙数の問題が解決するまでだけでなく、手短には書けない内容のものを、ときには論文形式で、ときには物語などにし書かせていただく形をとることにしました。

 

内容自体は、ちょうど「祈指団弾談」で書こうとしていた内容と重なるものです。

 

はてなの読者の方も、こちらにこられましたら、お得な深い内容にしてゆきます。

 

深くかつ、解りやすい宗教哲学は、こちらでしかなかなか読めないかと思いますので、是非楽しんでいってください。

 

では、今日は以上です。

 

情報の山奥の中にてさらに地底に落ちてゆくのなら(9日目)

ここは急いでアメブロにもどっておきま笑。

ブックマークその他、ともかく他の人のブログを読む時間が取れずに、ブログを見に行く仕組みが見えていないのではっきりわからないところもあるのですが、

今アクセス数をみてみると今月に入ってからは0という数字、

これは昔のブログが始まったころと違い、ブログ情報の山の中に目立つ形がないとどんな内容であれ見に来ないという中、さらにブログがYahoo!知恵袋ほどではないにせよ、時間とともに奥へ引っ込んでしまう形態

が推理され、

このいまの検索から呼び込めないタイトルのままでは、あとは情報の山の中に埋もれるのみ、

見に来た方への責任から、最後までまとめようと思っていましたが、

タイトルの中身がどのようなものなのかは、ほんの一部であっても誤解を避けるとことまでは昨日までに書いてあると思えるので、

急遽ここでこのブログは、このままにしておいて幕を閉じておきましょう。

 

後からふと目に触れて、どうしても読んでみたくなった方のために、アメブロでのこれからのことを書いておくと、

まずタイトルは、普通にキャッチコピーとコンセプトを融合したタイトルにするためにも、

ソウルポエムフィンガーダン

 

というタイトルにします。

祈指舞という言葉は、内容の中にやがて触れる形となってしまいます。

今は「祈指」と検索するとこちらが出てきますが、

おそらく「ソウルポエム」で何日か後には、新しいそのブログ二たどりつけるようになってるかと思います。

 

アメブロでは、去年の2月まで「ドクター中松応援会」というタイトルのブログを続けていましたので、そのタイトルで検索しても新しいプログに到達してしまうかと思います。

 

母の介護のためにいっさいブログその他のネット活動をお休みしていたわけですが、「ドクター中松応援会」は正式にひとまず終了しておきます。

 

短い得られた時間をこの普通人からの逆宗、普通の生活のただ中に宗という人間性の普遍の根幹を見出し、伝えてゆくブログに専念していくためです。

もちろん、こちらで余儀なくされた、いっぺんに多くのことを詰め込む形ではないので、一つ一つ丁寧に解りやすく楽しいものを書いてゆきますが、

同時に最終宗教としての責任と真剣さはこのまま引き継いでゆくことになるかと思います。

もし今後誰かがふとこちらを訪れた場合を考えて、記しておきました。

 

是非、新しいブログへ遊びにいらっしゃられてください^^。

 

では、これで失礼いたします♪

 

偽善対自然な心

昨日書きましたような「「キリストは自然で素朴な人たちの心に帰ることを訴えようとしていた」」という点についても本当は詳しく書きたくなるところ、ここは何となくでも《そうかもしれないな》と思っておいていただけると幸いです。

その辺抜きには愛とか善についていくつかとてもポイントをついたことを語られているにもかかわらず、それ自体の徳目が逆に偽善を生み出しかねないところの「無理」を生んでしまうところでもあったのです。

詳しく書かないとこのへんの人間心理を解ってもらえないところとも思いますが、

新約聖書の中でキリストは、唯一偽善者に対してだけは同じ人間としての怒りをあらわにているのです。

にもかかわらず、後のキリスト教徒の中にこそあまりにもむごい形の偽善者があまりにも多く現れてしまったのは、明らかに後のキリスト教の権威者たちが作り出した原罪とか最後の審判とかとかのよけいな教義を生み出しそれが重要となって、せっかくの昨日書きました人間の自然で素朴な心の面についてのキリストの訴えの部分がないがしろにされてきてしまったからなのです。

 

そのあたりを解りやすく解説するものが わたしの考えた自我論なのですが、ここではそれを書く紙数がありません。

 

ここではこう考えておいてください。

大自然を深く感じる心があれば、自我がどうであれ、他人に対しての自然な愛が生まれてくるのだという点を深く考えておいてほしいということなのです。

自我の殻は意思の力や頭で破ろうとしても実はそれだけではまるで鋼鉄の殻でもあるかのようにそれは堅固なものとなってしまうところがあるのです(こんなに手短にはかけないのですが、ここは・自我とはそういうものだと思っておいてください)。

ところが、大自然や、当たり前の家族愛などを深く感じる心があれ、自我は簡単につきぬけられてもしまうものだということなのです。

朝の光を味わう心、緑の深さ、野の野菜畑の静けさ、波の潮騒の音、そよふく風、そっと揺れる草花たち、そうした大自然を深く感じる素朴な心は、日々どこまでいっても飽きることのない新鮮な感覚の世界です。

ただのお遊びはやがて飽きてしまう時が来ますが、これこそが永遠に朽ちることのない心の世界なのです。

あたりまえにお互い人間として助け合ったりいたわりあったりする普通の心も同じなのですが、

ともかく、そうした普通の生活の中の大切なことごとの奥に人間性の根幹があり、それをキリストのような人たちはなんとか訴えようとしてきたわけであり、そのはずなのです。

 

では仏教の場合はそのへんどうなのでしょう?

 

昨日触れましたように仏教は直接仏陀の教えを継いでいるものではないため複雑な形となってしまっているので、その辺の本質を歴史からひも解くのは困難です。とても手短に書けるものではありません。

一番深く自我や自然な心の世界とのかかわりを物語らんとしているのが有名な阿頼耶識論ですが、この表現の仕方は学問的であろうとして難しく書きすぎています。

そこを簡単に表現しているのが法華経の中の十界互具論(百界千如とかは、ただのその繰り返しに過ぎないのでこれもおそらくわざと難しく書いて権威づけしたもののひとつです)の中のさらに菩薩と仏の違いのあたりについて、その辺のことが記されています。

菩薩界には海の砂粒のような惑いの世界があると語っているところです。

我々の知性こそが、それだけでは本当の自然な愛の世界に戻れず、道徳的であろうとしても無数の偽善心にいつしかすり替わってしまうということのそのあたりの人間心理をついているわけです。

ですが、ここも仏界とはやはり結論として本当の自然なままの素朴な感性の世界なのだという事を明らかに物語っているところなのです。

昨日触れました仏陀のほんとうの因果論は、同時に「この自然で素朴な感性」がないからこそ、悪の因果が生まれることになったという仏陀の心の叫びをも推理させるのですが、この推理も、このへんの法華経阿頼耶識論を追いかけてゆくと鮮明になって来るということなのです。

手短に書こうとすると、これ自体難しい書き方となってしまいますが、ここでは仏教キリスト教徒同じことを説かんとしてきてやはり昔の世の中でははっきりとはその真実をはっきりとは伝達伝道できないできたという点を少しでも解ってほしかったのです。

後光がさしてひれ伏すような偉い偉い人が仏陀なのではなくて、キリストが抱き上げたような素朴な純真な子供らしい子供たちのような新鮮な笑顔や目の輝きの世界、これが仏界なのだということなのです。

そして、そのことをこそ、このネット時代に、弾丸のように詳しくそしてわかりやすく書きまくっていきたいというのがこのブログで書こうとしていたところだったわけです。

 

ネット最終宗教というのは大枠を語るならそういうことだったわけです。

ほんとうは怪しげどころか人間の一番信頼できる状態を物語らんとしてもの^^だったということでもあるわけです。

 

明日はその辺のところをもう少し具体的に追いかけておきましょう。手短になりますがここはしかたないところです。

では長くなりましたのできょうはここまでです。

 

また明日♪

内容の概略を書くのには無理があり、今日は迷いました(8日目)

「ネット最終宗教」についての概略を書くのは難しいです。

手短に書ける部分は思いつかないです。

すべてが手短には書けないところなのです。

 

例えば、仏陀についてなら、仏陀の死後100年を経て記録が始まり、それが古代ナーランド大学などの努力により学問的に深められた宗教思想となって他の要因もあり世界に広がっていったわけですが、その歴史自体本当は複雑ですし、そこを私は今までの定説をすべて飛び越えて、仏陀の真意を推理しているのです。

 

なので、その推理を語るのは、いかに私が学者ではなく、知識を活用しない形で語らんとしているからと言ってとても短時間短紙数で語れるとことではないのです。

 

結論だけ書くなら、仏陀の真意は「「完全な許しの知恵、知性」」といったものなのですが、これを簡単に、だから彼の平等論,反カースト制には100年を超えても伝わる迫力があったのだと言っても何を言っているのかわからないと思います。

 

100年後の伝言として有名なのが12因縁などの因果論ですが、その因果論ははっきり言って幼稚です。しかし、その点から推理しても仏陀の真意が因果論にあったことは推理できるところ、それが完璧な因果論であるなら、まさにどのような悪も、遠因から探れば因果のうち、人間の弱さの限界がその知性には丸見えとなり、「「どんな人間、あるいはどんな悪人も、その過去に関しては完全に許す完全に問わない、完全にその未来の幸せを想い愛されるべきだという考えこそが完全な知性の推理なのだ」」という点なら少しはこの短すぎる説明出もわかる人もいるかもしれません。

 

仏陀の無の思想にしても、その点を抜きにしたら本当は全く無意味でしかないのです。

 

やっぱり、解りやすくを旨としたい私には、手短には書きがたいところとなってしまいます。

 

ではキリストについてはどのように考えているのか、というとこれもまた

 

私の結論はけして難しい結論などではないのに、なぜかまだ誰も語ってくれていない、まるで無視されてきた論述点なのです。

 

彼は遊んでいる素朴な子供たちを抱き上げて「このような人たちこそ天国の人たちだ」と語っているわけですが、そこからは素朴で自然な状態に暮らしている人たちのいつも新鮮で平穏で、真心からいたわりあう自然な心への賛歌が浮かび上がってきますよね。

ここまではわかりますよね。

 

キリストについても仏陀ほどではなくても、簡単には書けないのですが、明らかに文明以前、あるいは文明の知恵の木の実を食べる以前に、自然に帰れと語らんとしたのがキリストだという点、私としてはここを解ってほしいのです。

 

ここを解れば、キリストの言葉のすべてが整合性を持って見えてきます。

アダムとイブの物語の本当の意味もです。

 

また、心の内側でセックスを想像しても、実際に交わっても、心が曲がっていればどちらにせよ同じように曲がり、心が美しく愛し合えて自然なままであれるなら、それはの野百合よりもさらに美しい新鮮な行為でもある点についてもキリストは示唆されていますが、これこそこれからの人類に最重要な点でもあり、そこをさらに私は経絡の気脈が今となっては一番わかりやすい奥深いそのことの理解の入り口だと考えているのですが、さてこれだけの短い説明で何かわかる人がいるでしょうか?

 

重要というのは、人口爆発の問題を上からではなく人間の心の内面からクリアーする唯一の方法がここにあるからなのですが、禁欲という事でもないわけで、…、手短にどう書いたら解ることなのか迷わないではいられないところとなってしまうのです。

 

またキリスト教といえば復活論が有名ですが、これは後に(私の推理では後にということになります)人間が復活する時には最後の審判があるという事とされてしまいましたが、これはあまりにも明白にそんなことはありえないはずなのです。

 

復活自体は否定する必要なんてないことですが、それは存在自体がそれ以上に不思議な命なのだからという理由であり、信仰とかの問題とは別の意識、これも自然な愛情の中でふと心づくものでしかないのです。

何よりも、神こそは全知なのですから、それこそ仏陀以上に因果のすべてを解っている存在と仮定して生まれた概念なのですから、その神が弱い人間をさばくなどという事は絶対ありえないことです。

絶対という事はこの世に存在しないと言っても、神自体を絶対知と仮定したうえでのことですので、むしろこれこそ唯一無二の絶対と言えてしまうのですよ。

 

解りますか?、本当に絶対に最後の審判なんてありえないのです。

今日は、ここさへ解ってもらえればいいとして、ここはまとめとさせていただきましょう。

 

(おかしいです^^。きょうはまだ行改正の問題が生じていません? ですが、長くなりすぎてしまいますので、ここでくぎりとします)

 

ともかく、どんな誰をも幸せになってほしいと祈る心、どんな悪人をも同じように抱きしめるような気持になること、これが仏陀やキリストが語らんとした人間精神のはずなのです。

時には厳しくする必要があってもそれは未来のその人の幸せのためだけであるということです。

罰ではなくて、その人を更生させるためだけに抱きしめるときと同じ愛情で厳しくするときもあるということだけなのです。

 

どんな人間もいつしかふと気が付いてみれば、知らない間にこの存在、この大地に生まれてきていた、私も、これを読んでいるあなたも例外なく、ほかにはどこにもいない存在どうしであり、強いも弱いもすべて相対、かつ因果のうち、誰も非難することもできる存在ではなく、誰もが愛し合い協力し合うべき存在として、ここに存在しているわけです。

 

長くなってしまいましたが、ほんの少しでも私の心の叫びをわかってほしくて一応まとめさせていただきました。

こんな形となってしまいますが、明日ももうすこしつづけさせていただきます。

ではまた明日♪

今回の失敗の理由はあせりなのですが、…。(8日目)

今回のはてなブログ実践事始めは失敗でした。

はてなブックマークのいくつかの解説のような記事を読んでゆくと、

これは他のブログをよく読んでいないと活用できないのではないかと思えてきました。

しかし、今の今は、母親の介護等の事情でなんとかプログを始めることができる時間が取れるようになった段階ですので、そこには時間的に無理があると思います。

 

以前時間があった時には、フリーエムエルというメーリングリストというコンセプトのSNSで、その全カテゴリーにわたって外からわかる特徴と人数などの傾向性などをすべてグラフにして考察してみたりしたことがあります。

 

そうした時間が取れれば、誠意あるはてなブックマークの有効活用が可能となるでしょうが、真剣であるほど、今の今は活用以前の問題となってしまうと思われます。

一年半ほどブログを書くことを、母の世話に集中するためにやめていたわけですが、母の体力の回復があったことで、再びブログ再開可能となったとき、

この一年半というのは私のような一つの事(舞踊)を毎日のよう追及してる人間にとっては大きな変化を生む時間、

全く以前とは異なったものを書きはじめるビジョンとなっていたというわけです。

 

ところが、実は、同時に、

ここにきて急になのですが、68歳の自分自身の体の面での老化が進み始めたと感じるようになってしまったのです。

 

さらに加えて、なんと首のヘルニアが十年ぶりぐらいに再発してしまい、

指のダンスなのに左手の指が使えなくなってしまったのです。

 

幸い、右手はまだ使えます。

ブログにダンス動画を張り付けるには実は音源の問題があるため、私のようなその面 素人の人間では無料音源を使うしかないところ、

私は今まで無料音源を色眼鏡をかけて悪いイメージでとらえていたのです。

ところが、ここにきて、もう待っていられないと視聴してみたところ、イメージはすっかり変わりました。

 

時には私の体を超えて空間中が感動で震えだしたかのように思えるようなその時になってみなければわからない感動を、様々な名音楽の世界は生み出しています。

確かにネット無料音源は、それと比べれば、本物の音楽の歴史から少しはずれた別の音楽と言えてしまうかもしれません。

ですが、例えば私は、無料音源のイメージを、夕方、市の時報とともに流される「夕焼け小焼け」の音楽のような最悪の音に毛の生えた程度のものとおもってしまっていたのです^^。

 

実際に、右手と右指だけの動きのダンスでなのですが、携帯の動画で撮ってみると、それは、祈指舞とはまだ言えるものではないものの、ちゃんと自分の舞踊を説明できるに仕上がっていました。

その時は万歳という心境でした^^。

 

これでプログが再開できる、…。

いや、今再開しなければ、もうチャンスはなくなる!でもです…、(今日はここから行改正ができなくなりました??!)なんと、今度は携帯からパソコンへ動画が移せないのです?今までできていたのに? こうして<焦り>が本格的になってきた^^。というのがこのハテナブログでの「あせり」につながったということだったのです。 ともかくこれでは、肝心の中身に集中できないですし、ここは思い切って時間の取れる日まではてなの方はお休みし、去年の2月五日あたりまでやっていたアメーバに戻っておこうと思います。ここまで中身も少し書いてしまったのですから、どういうことを書こうとしていたのかだけ、あと何日かになるかと思いますが簡単にまとめておこうと思います。このように決めておけば、そのあと何日かは、中身に集中できるかと思います。それにしても行改正の問題まで出てきてまるで、意地悪な四次元人にでも邪魔されている^^かのように思えてしまいます。と、という事で、今日は仕方なくも、この辺で^^。また明日♪