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祈指団弾談

盲目的信仰ではなく、謙虚さのみを唯一の信仰として理解と理解の輪を広げてゆくネット最終宗教

内容の概略を書くのには無理があり、今日は迷いました(8日目)

「ネット最終宗教」についての概略を書くのは難しいです。

手短に書ける部分は思いつかないです。

すべてが手短には書けないところなのです。

 

例えば、仏陀についてなら、仏陀の死後100年を経て記録が始まり、それが古代ナーランド大学などの努力により学問的に深められた宗教思想となって他の要因もあり世界に広がっていったわけですが、その歴史自体本当は複雑ですし、そこを私は今までの定説をすべて飛び越えて、仏陀の真意を推理しているのです。

 

なので、その推理を語るのは、いかに私が学者ではなく、知識を活用しない形で語らんとしているからと言ってとても短時間短紙数で語れるとことではないのです。

 

結論だけ書くなら、仏陀の真意は「「完全な許しの知恵、知性」」といったものなのですが、これを簡単に、だから彼の平等論,反カースト制には100年を超えても伝わる迫力があったのだと言っても何を言っているのかわからないと思います。

 

100年後の伝言として有名なのが12因縁などの因果論ですが、その因果論ははっきり言って幼稚です。しかし、その点から推理しても仏陀の真意が因果論にあったことは推理できるところ、それが完璧な因果論であるなら、まさにどのような悪も、遠因から探れば因果のうち、人間の弱さの限界がその知性には丸見えとなり、「「どんな人間、あるいはどんな悪人も、その過去に関しては完全に許す完全に問わない、完全にその未来の幸せを想い愛されるべきだという考えこそが完全な知性の推理なのだ」」という点なら少しはこの短すぎる説明出もわかる人もいるかもしれません。

 

仏陀の無の思想にしても、その点を抜きにしたら本当は全く無意味でしかないのです。

 

やっぱり、解りやすくを旨としたい私には、手短には書きがたいところとなってしまいます。

 

ではキリストについてはどのように考えているのか、というとこれもまた

 

私の結論はけして難しい結論などではないのに、なぜかまだ誰も語ってくれていない、まるで無視されてきた論述点なのです。

 

彼は遊んでいる素朴な子供たちを抱き上げて「このような人たちこそ天国の人たちだ」と語っているわけですが、そこからは素朴で自然な状態に暮らしている人たちのいつも新鮮で平穏で、真心からいたわりあう自然な心への賛歌が浮かび上がってきますよね。

ここまではわかりますよね。

 

キリストについても仏陀ほどではなくても、簡単には書けないのですが、明らかに文明以前、あるいは文明の知恵の木の実を食べる以前に、自然に帰れと語らんとしたのがキリストだという点、私としてはここを解ってほしいのです。

 

ここを解れば、キリストの言葉のすべてが整合性を持って見えてきます。

アダムとイブの物語の本当の意味もです。

 

また、心の内側でセックスを想像しても、実際に交わっても、心が曲がっていればどちらにせよ同じように曲がり、心が美しく愛し合えて自然なままであれるなら、それはの野百合よりもさらに美しい新鮮な行為でもある点についてもキリストは示唆されていますが、これこそこれからの人類に最重要な点でもあり、そこをさらに私は経絡の気脈が今となっては一番わかりやすい奥深いそのことの理解の入り口だと考えているのですが、さてこれだけの短い説明で何かわかる人がいるでしょうか?

 

重要というのは、人口爆発の問題を上からではなく人間の心の内面からクリアーする唯一の方法がここにあるからなのですが、禁欲という事でもないわけで、…、手短にどう書いたら解ることなのか迷わないではいられないところとなってしまうのです。

 

またキリスト教といえば復活論が有名ですが、これは後に(私の推理では後にということになります)人間が復活する時には最後の審判があるという事とされてしまいましたが、これはあまりにも明白にそんなことはありえないはずなのです。

 

復活自体は否定する必要なんてないことですが、それは存在自体がそれ以上に不思議な命なのだからという理由であり、信仰とかの問題とは別の意識、これも自然な愛情の中でふと心づくものでしかないのです。

何よりも、神こそは全知なのですから、それこそ仏陀以上に因果のすべてを解っている存在と仮定して生まれた概念なのですから、その神が弱い人間をさばくなどという事は絶対ありえないことです。

絶対という事はこの世に存在しないと言っても、神自体を絶対知と仮定したうえでのことですので、むしろこれこそ唯一無二の絶対と言えてしまうのですよ。

 

解りますか?、本当に絶対に最後の審判なんてありえないのです。

今日は、ここさへ解ってもらえればいいとして、ここはまとめとさせていただきましょう。

 

(おかしいです^^。きょうはまだ行改正の問題が生じていません? ですが、長くなりすぎてしまいますので、ここでくぎりとします)

 

ともかく、どんな誰をも幸せになってほしいと祈る心、どんな悪人をも同じように抱きしめるような気持になること、これが仏陀やキリストが語らんとした人間精神のはずなのです。

時には厳しくする必要があってもそれは未来のその人の幸せのためだけであるということです。

罰ではなくて、その人を更生させるためだけに抱きしめるときと同じ愛情で厳しくするときもあるということだけなのです。

 

どんな人間もいつしかふと気が付いてみれば、知らない間にこの存在、この大地に生まれてきていた、私も、これを読んでいるあなたも例外なく、ほかにはどこにもいない存在どうしであり、強いも弱いもすべて相対、かつ因果のうち、誰も非難することもできる存在ではなく、誰もが愛し合い協力し合うべき存在として、ここに存在しているわけです。

 

長くなってしまいましたが、ほんの少しでも私の心の叫びをわかってほしくて一応まとめさせていただきました。

こんな形となってしまいますが、明日ももうすこしつづけさせていただきます。

ではまた明日♪