偽善対自然な心
昨日書きましたような「「キリストは自然で素朴な人たちの心に帰ることを訴えようとしていた」」という点についても本当は詳しく書きたくなるところ、ここは何となくでも《そうかもしれないな》と思っておいていただけると幸いです。
その辺抜きには愛とか善についていくつかとてもポイントをついたことを語られているにもかかわらず、それ自体の徳目が逆に偽善を生み出しかねないところの「無理」を生んでしまうところでもあったのです。
詳しく書かないとこのへんの人間心理を解ってもらえないところとも思いますが、
新約聖書の中でキリストは、唯一偽善者に対してだけは同じ人間としての怒りをあらわにているのです。
にもかかわらず、後のキリスト教徒の中にこそあまりにもむごい形の偽善者があまりにも多く現れてしまったのは、明らかに後のキリスト教の権威者たちが作り出した原罪とか最後の審判とかとかのよけいな教義を生み出しそれが重要となって、せっかくの昨日書きました人間の自然で素朴な心の面についてのキリストの訴えの部分がないがしろにされてきてしまったからなのです。
そのあたりを解りやすく解説するものが わたしの考えた自我論なのですが、ここではそれを書く紙数がありません。
ここではこう考えておいてください。
大自然を深く感じる心があれば、自我がどうであれ、他人に対しての自然な愛が生まれてくるのだという点を深く考えておいてほしいということなのです。
自我の殻は意思の力や頭で破ろうとしても実はそれだけではまるで鋼鉄の殻でもあるかのようにそれは堅固なものとなってしまうところがあるのです(こんなに手短にはかけないのですが、ここは・自我とはそういうものだと思っておいてください)。
ところが、大自然や、当たり前の家族愛などを深く感じる心があれ、自我は簡単につきぬけられてもしまうものだということなのです。
朝の光を味わう心、緑の深さ、野の野菜畑の静けさ、波の潮騒の音、そよふく風、そっと揺れる草花たち、そうした大自然を深く感じる素朴な心は、日々どこまでいっても飽きることのない新鮮な感覚の世界です。
ただのお遊びはやがて飽きてしまう時が来ますが、これこそが永遠に朽ちることのない心の世界なのです。
あたりまえにお互い人間として助け合ったりいたわりあったりする普通の心も同じなのですが、
ともかく、そうした普通の生活の中の大切なことごとの奥に人間性の根幹があり、それをキリストのような人たちはなんとか訴えようとしてきたわけであり、そのはずなのです。
では仏教の場合はそのへんどうなのでしょう?
昨日触れましたように仏教は直接仏陀の教えを継いでいるものではないため複雑な形となってしまっているので、その辺の本質を歴史からひも解くのは困難です。とても手短に書けるものではありません。
一番深く自我や自然な心の世界とのかかわりを物語らんとしているのが有名な阿頼耶識論ですが、この表現の仕方は学問的であろうとして難しく書きすぎています。
そこを簡単に表現しているのが法華経の中の十界互具論(百界千如とかは、ただのその繰り返しに過ぎないのでこれもおそらくわざと難しく書いて権威づけしたもののひとつです)の中のさらに菩薩と仏の違いのあたりについて、その辺のことが記されています。
菩薩界には海の砂粒のような惑いの世界があると語っているところです。
我々の知性こそが、それだけでは本当の自然な愛の世界に戻れず、道徳的であろうとしても無数の偽善心にいつしかすり替わってしまうということのそのあたりの人間心理をついているわけです。
ですが、ここも仏界とはやはり結論として本当の自然なままの素朴な感性の世界なのだという事を明らかに物語っているところなのです。
昨日触れました仏陀のほんとうの因果論は、同時に「この自然で素朴な感性」がないからこそ、悪の因果が生まれることになったという仏陀の心の叫びをも推理させるのですが、この推理も、このへんの法華経や阿頼耶識論を追いかけてゆくと鮮明になって来るということなのです。
手短に書こうとすると、これ自体難しい書き方となってしまいますが、ここでは仏教もキリスト教徒同じことを説かんとしてきてやはり昔の世の中でははっきりとはその真実をはっきりとは伝達伝道できないできたという点を少しでも解ってほしかったのです。
後光がさしてひれ伏すような偉い偉い人が仏陀なのではなくて、キリストが抱き上げたような素朴な純真な子供らしい子供たちのような新鮮な笑顔や目の輝きの世界、これが仏界なのだということなのです。
そして、そのことをこそ、このネット時代に、弾丸のように詳しくそしてわかりやすく書きまくっていきたいというのがこのブログで書こうとしていたところだったわけです。
ネット最終宗教というのは大枠を語るならそういうことだったわけです。
ほんとうは怪しげどころか人間の一番信頼できる状態を物語らんとしてもの^^だったということでもあるわけです。
明日はその辺のところをもう少し具体的に追いかけておきましょう。手短になりますがここはしかたないところです。
では長くなりましたのできょうはここまでです。
また明日♪