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祈指団弾談

盲目的信仰ではなく、謙虚さのみを唯一の信仰として理解と理解の輪を広げてゆくネット最終宗教

高所安全対策用はしごの構想

役立つことは宗教ではないのでしょうか?

 

命や、その保護、介助、幸せにとって、役立つことは、むしろ

命の底からの願い、人間として生きていて人間に与えられた意識の底からの祈りの結実を意味する、切実な概念、

 

宗教がそれと対立でもしているかのように抽象的な言説で終始しているのはむしろ何か変だと思いませんか?

 

もちろん、現実の変革を目指した宗教家たちは歴史上にもいます。

 

しかし、今ネット時代にこそ、そのへんはより明確な明晰性と具体性を持った祈りとしていくべきなのだと私は思うのです。

 

今日は、アメブロの「こ、こげな宗教哲学世界中を探してもありえん」というブログの最初のテーマ

 

「ところであなたは、高所恐怖症の治し方を知っていますか」シリーズを受けて、

 

高所安全対策用はしごの構想

のお話をさせていただきましょう。

 

 

高所恐怖症がどれだけ本人たちにとって切実な問題なのか

についてはアメブロの方を読んでみてください。

URL⇒

ameblo.jp

 高所恐怖症であるにもかかわらず、設備業などではしご作業を

しなければならない人たちのためにも、

 

私は、こんな、はしごを考えてみました。

 

一番危ないのは二段梯子の上部に立っての、作業だったりするのですが、

 

高所恐怖症のとき、私自身こんな体験があります。

 

二段梯子の上の方で、ドリルを持っての作業を頼まれたのですが

「下でおさえてているから大丈夫だ」とのことなので、

怖かったのですが^^死に物狂いで、

なんとか作業をしていたところ

 

ふと下を見たら、その人が

いません??

 

?

 

 

もうだめでした^^。

 

おそる、おそる、おそるおそる、

梯子を下りて

 

やっと地面についた私は、そっと逃げ出して

いたのですすすすす。

 

危ない目には山ほど遭遇していますが、特徴的^^

なので記しておきました。

 

では、そんな時にも、こんな梯子(はしご)があれば、どんなにか

安心して作業ができるでしょうか。

 

という梯子(はしご)を考え付いたことがありますので

公開させていただきましょう。

 

 

こちらでも、大体の仕組み程度の事しかお話しできませんが、

それはこんな構想なのです。

 

普通の二段梯子も重いので、持ち運びの問題があり、

それを解決するための車輪の脱着可能な梯子が、

その前提としてあると考えておいてください。

 

作業する場である上部が重くなるので、よけいに

 

運んだり、設置したりするのが大変となってしまう

案なので、その辺をクリアーしておく考えであるわ

けです。

 

ですが、同じ軽量のアルミで、その安全性の確保は

可能となるため、極端な重量となるというわけでもな

いのです。

 

まず、はしごを3メートルほど長くします。

 

しかし、その上部を使うということではないため、

 

上部の部分は、はしごのだんだんの構造ではなく

別なそれ用の構造とすることが可能であるわけです

が、

 

梯子を壁に立てたときに、はしごの下の部分の壁との

間に、上から人の背の高さの3角形ができることに

気が付いてほしいのですが、

 

これは、はしごの頂点に軸をつけたアルミのバーを

両側に取り付けて、

作業時に、垂直に下すだけでいいという構造のもの

なのです。

 

この下した左右のアルミのバーは、もちろん、

梯子との間に、アルミの作業台を括り付けることが

できるようになっている、という構想。

 

上部の3メートルは、その作業台への通り道にもなって

る形なのです。

 

だいたいの形解りましたでしょうか?

 

ちなみに

 

私は之で特許を取るつもりはありません。

 

 

明王ドクター中松については、上記紹介のアメブロのバックナンバーで

詳しく書いていますが、

 

ドクター中松も、特許を取らないあり方や方法とかを説いておられるのです。

 

それとは別な意味でも、私はこの構想を梯子の会社の方に提供するつもりです。

 

まずは、こちらのブログを読んでいただこうと考えているのです^^。

 

ほかにもいろいろ安全対策用の梯子の構想はあるのですが、一番解りやすく説明のしやすかった構想を書いておきました。

 

ドクター中松の発明精神にも人への愛情という部分は大きいです。

しかし、彼の、普通の人とは目の付け所が違う天才的発明のためのひらめきや、発想転換法は、まさにその道の天才のものだと思うのです。

 

私のは、構造も簡単すぎるほど簡単で、ほんのちょっとした発想転換、普通の人間で十分思いつく発想でありひらめきでしかありません。

 

ただ、体験や愛情は、あくまで普通のそれではあっても、一番対峙なところと思うのです。

 

ほんとうに、普通の愛情でいいのです。

でも、何か崇高で神秘的などではなくても、

 

 

ちゃんとあたりまえに、具体的に役立つことを

必死で考える、そういう人間性が、

 

私という普通の人間は、はるかに宗という人間の

 

普遍的祈りの世界に近いのではと思います。

 

もちろん宗教組織も問題ではありません。

個々人の自覚としての宗教の祈りの世界のことです。

 

ドクター中松は、そのへんを「個人宗教」の夜明けといった表現で語られていたりします。

 

まさに,賢主主義を掲げる自ら賢人にふさわしい方なのだと思います。

 

人間としての目的を忘れたただの優生主義とは別質の基と考えてください。

 

もう一度言いましょう。

人への愛情が、私たちの共通項です。

 

 

また、そうあるべきなのです。

 

今日は以上です。