神という概念について
神は人間の作りだした幻想なのか?
このテーマは、
ブログ「こ、こげな宗教哲学世界中をさがしてもありえん」
の本文の中でも、
次の次の小テーマで扱ってゆく予定のテーマです。
しかし、この「追伸」の中の形にても、
別文で追いかけておきましょう。
本文の方は体験をもとに徹底的に面白くかつかみ砕いたわ
っかりやすい読み物にしてゆくつもりだからです。
そのへんは本文をどうぞご期待ください(^^)/
よく、神の存在の証明とかで、こんな説明を聞きます。
雲の上からのロープに吊るされた籠の中に私たちが生きていると
最初に仮定しておいて、
私たちが生きていられるのは、籠とロープのおかげで、
それなしには落ちてしまい、地面に叩きつけられ命を失ってしまうところ、
ちゃんとこうして生きていられるという事、存在しているという事
これは、こちらからは目に見えないけれど、
雲の上からの神の支えがあるからだ。
神は見えないけれど、こうしてその存在の推理はできるのだ。
というふうにです。
これおかしいと思いませんか^^。
そんな仮定をしなくても^^、
ちゃんと私たちは、この大地に生きているので、
最初のたとえ自体がおかしいからです。
籠やロープ無しに大地に生きているのに、
仮にロープに吊るされた籠を持っている神を仮定した場合には
神なしには確かに籠もその中の命も落っこちてしまうわけですが^^
そうでない場合にはなりたたないのでは、神の存在の証明には
ならないわけです。
ですが、これは、その逆も言えるのです。
その論理がおかしいからと言って神のいない証明にもならないこと
も、真実です。
答えは、「それは人間には解りえないこと」。
論理的にはそれが結論となるのです。
私たちは、いつしか気が付いてみたら、この奇跡の星(水がこんなに豊かに
豊かに定着した星は、宇宙中探しても見つからないかもしれません。ほとんどが
ガス状か、火か岩石ばかり、からからの生物の住めない砂漠状態ばかりの星々)
に生まれていて、
こうして命を得ている、不思議な命どうしであるわけですよね。
こうして書いている私も、これを今読まれているあなたの命もです。
そして、そのこと自体は、無神論者も無神論者も全く同じなのです。
なぜ、ここにいるようになったのか、これ自体も、まったく「わかりえない」
事の一つ。
この「わかりえない」ことは、実はけっこうたくさんあったりします。
神という概念も、そのうちの一つだということなのです。
なので、そこを解ったというごまかしを信仰とすると、
当然無神論の人との対立が起こり、時として争いすら生まれてしまう
わけです。
本当の信仰は、そうしたごまかしを必要としない心に生まれます。
仮定を仮定として理解したうえで、
それでも、人生をいろいろ経験してゆくうちに心に見つけた希望の光と
して、心づくものが本当の信仰だと私は思っています。
では、神という概念の当体は、人間の想像力が作り出した幻想なのか!
と聞かれたら、私ならこう答えます^^。
神とはこういう存在だと言ったとたん、あるいは思ったとたん、
それは幻想という名で呼ばれるものとなってしまう^^のだ。
というふうにです。
「解りえない存在」を、「これはこういう存在だ」と規定したら、それは
嘘か、ただの思い込みに過ぎないわけですからね。
例えば、それを唯一無二絶対と規定したところで、同じことです^^。
それは、幻想、人間の側からの勝手な、必死なかもしれなくても
勝手な^^、思い込みとか嘘でしかないのです。
神は死んだとか言いますが、それもほんとは「解らないのですから」同じ
穴のむじなですけどね^^。
解らない事、不思議な事は、普通に当たり前に知られていることの中にも
たくさんあります。
何も超常現象とか^^出なくても、それよりもはるかに不思議でまったく
解らないことがらがです。
「私」自身や(あなた)自身の存在について、考えてみましょう。
あなたのお母さんから、同じ顔の同じ性格の人が生まれたからと言って
あなたご自身は、この世に存在していなかったかもしれないのに、
今、お母さんから生まれ来たって、長い間生きてこられて、
たった今、これを読まれている^^わけです。
なぜ「私」は、なぜ「あなた」という存在は、
今「ここ」に生きているのだろう?
これ自体はどんな科学者も数学者もと消えない事実の世界なのです。
こうしたことは、まだまだあるのです。
命は、ほんとうに奥深い不思議でできていたりします。
そして、解らないことは解らないままでも、
ちゃんと感謝なら感謝はできるようになっていますし、
(母親にも、祖先にも、ありとあらゆる命の努力にも、
その努力なしには「私」がこの大地に居ないこともまた
解ることですからね)
その不思議の世界に、驚くことも、
与えられた大地、大自然を感じることも、
人間が争わない幸せがどれだけ尊い時間かということも、
そう、ありとあらゆる価値を見出すことはできるのです。
解らないことを解ったと言ってケンカするのは、
もうバカバカしいだけなので、やめましょう!
それよりも、
解るという能力を与えられていることを感謝して、
解ることをもっともっと、具体的に追及してゆきましょう。
その向こうには、絶望もあるかもしれなくても、
それでもなお、価値が見えてきますよ。
それでもなお、生きることには光が、希望が見えてきますよ。
と叫ぶのが、訴えるのが、語りかけるのが、
それが宗教哲学の世界だと私は思うのです。
それは、幻想の世界などではないですよ^^。
今日は以上(-_-;)(^^♪です。