祈指団弾談

盲目的信仰ではなく、謙虚さのみを唯一の信仰として理解と理解の輪を広げてゆくネット最終宗教

形而上学という学問は、断捨離すべき時がきているのかもしれない。

私は学者ではありません。

アメブロにて「こ、こげな宗教哲学世界中を探してもありえん」というタイトルの宗教哲学が主題のブログを書いているのは、

 

自身の生死、苦楽のさまざまな極限的な体験から、普遍な根源的な人間性や、軸となり指針となる精神を語らんとするものです。

(死の体験というのは、ぎりぎりで助かった貴重な体験が、いろいろあったりしたことを言います。いわゆる瀕死の状態での臨死体験のような幻想の事ではありません^^)

 

なので、過去の宗教哲学の学問の世界については私は知らないのですが、

キリストや仏陀に関しては深い推理が働きますし、学問的にそれらが今だに解明されていないことが

これもいろいろ推理されるために、それで自分が立ち上がってみるしかないと思え、書き始めただけなのです。

 

しかし、ちょうど、「横井哲学」のメーリングリストで、いろいろ論議をしようと、

 

2年ぶりぐらいにそのSNSを訪れてみて、

 

そこでの論議で形而上学と神について何かが話しだされようとしていたところに興味が引かれ、

 

形而上学とは何なのだろうと調べ始めてみたのです。

 

ウィキペディアで見ますと、

 

たしかにこれは、神とか死後の世界とかのことが昔から形而上学という学問として論じらてていたようです。

 

こうなるとそれは私の専門のような世界ですからね。

 

あっという間に先ほどなのですが、最後まで読んでしまいました^^。

この学問の世界は、どうやら最初からかなりめちゃくちゃに混乱していますね。

 

あるいは、かなり強引に論理を破壊して出発してしまってますね。

 

最後も、別な概念を形而上学と呼ぶようになっていることが書かれていますが、

例えば、「こころ」も目に見ないので、神と同じように形而上学として扱われていたりする学問があるようで^^、

これは、むしろ、さらなる混乱へと病状が進んでいる学問と言えてしまうのかもしれません。

 

詳しい論議は、「横井哲学」のメーリングリストできちっと論議してみたいと思いますが、

 

これだけめちゃくちゃな学問の歴史を、こんなに概略的に解説されては、一般の読者は、それこそ何を言っているのかさへ解らないのではないでしょうか。

 

この「追伸」→URL内の記事は、けれども、そうした学問的な興味を持たれている方にも、興味深い話題を提供するために、工夫した記事として書かれ始めたページです。

 

そこで、今なりに、

 

少し整理しておくことにしたいと思います。

 

アリストテレスがまず、自然科学を「第2哲学」と呼び、

その存在の原因となる神を哲学する(考える)学問を「第1哲学」と規定して出発してしまったようですね。

 

これが、すでにかなり強引すぎるのです。

 

よく有神論者は、神の存在の証明であるかのように、こんな説明をしたりします。

 

雲の上からの綱でぶら下がっている世界を仮定して、

 

世界の存在が保たれているのは、雲の上の世界がこちらからは見えなくても、何者かがその綱を支えているから、

 

下に落ちないで、存在し続けていられるのだ。

 

 

ゆえに身には見えなくても、我々の存在を支える神が必ず存在している。

 

というふうになのですが、

 

私たちは別に、空中の籠か何かの中で生きているわけではないですよね^^。

 

私たちが存在しているということは、原因が神であるかどうかは解らないわけです。

宇宙に最初から存在が存在していれば、それは神を想定しなくても存在していたことになるわけですよね。

 

少し込み入ってますが^^、難しいお話ではないでしょ(^^♪

 

もちろん、神という絶対者が原因で存在が存在しているのかもしれませんよ^^。

 

でも、これって、どちらが本当なのか、解る人なんていないはずなんです。

 

ここまで解りますか?

 

こう書けば、この話のおかしさは誰でもわかるかもしれません。

 

神がいると仮定すれば、存在は神がいなければなりたなないし、

 

見えなくても雲の上から綱を下した籠の中に私たちが生きているかのように神なしには私たちは存在しえないわけです。

 

神がいないと仮定すれば、私たちの宇宙は最初から何かの形で、(それはエネルギーかもしれませんし、真空状態なのかもしれませんし、私にはその辺はわかりませんが^^)存在していたから今も存在し続けていて、その過程に私たちは生まれることとなったという事になります。

 

ということは、両方とも明らかに成り立つ論議ではないですよね。

論理的にはあくまで成り立たないはずです。

 

そこを最初から、原因としての神あるいは神のような原因者?^^?を、さらに「第一哲学」と規定までして、いかにも学問的な体裁を整えて、形而上学が出発してしまったという事になるわけですよね。

 

つまり、こんな昔から、有神論者と無神論者の無駄なばかばかしい論議が始まってしまっていたということなのです。

神を信じたい気持ちとか

逆に神なんて信じられないという気持ちとかは、

 

気持ちの面ではいろいろな体験からよくわかります。

 

であるならであるほどに、

 

ほんとうは、論理的に、それはお互いに論理にはならないということをこそ、

哲学者たちは明確にすべきだったのだと私は思います。

 

ウィキペディアの「形而上学とは」を読んで、いよいよ、

私は、

 

おそらく形而上学という学問は、一度断捨離してしまうべき時が来ているのではと思えてしまっています。

 

 

世界最高峰の哲学者であられる横井直孝の「真の哲学体系を求めて」というメーリングリストの中で、できるだけ早く

そのへんをきちっと質問してみようと思っています。

 

今日は以上です。