ザ・ネット祈指団弾談
昨日から書き始めたわけですが、私がかなりのネット音痴老人(68歳)であることを隠せないことになってるな^^と思いました。
はてなblogを始めようとして画面を開いたらまずブログを書く画面となり、ともかくそれを書いてから、デザイン等を後から編集していったのですが、
まずプロフィールを書く場所が見つからず、やっとそれらしいものを見つけてなんとか書いたところ、それがどこに表示されるのかもわからず、ブログに反映できないでいます。
多分、昨日の文は削除して最初からやり直すをいうことはできるのでしょうが、これを書き始めるにあたって「もはや書かないではいられなくなって書き始めた者」として情熱のままに即興で書いてゆくと決めていましたので、昨日の文からの出発はそのままにしておきます。
しかしそのままづつける前にプロフィールは必要だと思われますので、超簡単にですが私のプロフィールを綴っておきましょう。
現在私自身は68歳で、91歳の要介護5と認定された母と暮らしている身の者です。
今のところ何度かやり直しているのですが写真の張り付けもうまくいってません^^。が、
ともかく、横になってしまっている写真のこの男性が私です^^。
子供の頃幾つもの要因が重なり(事実は小説よりも奇なりを思わせるところなので今後詳しく書いてゆくことにもなりますがここでは略します)何度も死の淵をさまよい、虚弱児施設にて救われた人間、
運動を工夫することで何とかここまで生きながらえてきた人間でもあるところなのです。
なので下手するといわゆる老老介護に陥りそうにもなるところ、体にはさらに気を付けているところです。
本当は、こんなことを始めるに至った人間ですので、そこに至る経緯などのプロフィールとなると本数冊書いても書き切れるものではないと思います。
なのでここは、あと一点だけ。
確かに下の世話は必須ですので多少大変なところはあります。
ですが、家族に信頼関係があれば(実は私の家族にも「家族病理」といえるような問題もあったのですが、それを克服してのことと考えてください)介護する側の体さへ健康であれば、拍子抜けするぐらい楽なおしごとでもあるのが介護です。
これが少しでもわだかまりがあったりすると、それがちょっとしたことで膨らんでいったりして、神経からやられてゆく介護地獄の世界はいろいろ想像されます。
ですが、体験してみてやはり心の問題さへクリアーすればその地獄も天国に変わるという事が言えると思っているのです。
実は、おかゆすら一日に一口、水分さへほとんど飲めないような状態から始まった介護だったのですが、今ではちゃんと食べられるようにもなり、車いすなしでも介助すれば歩けるまでに回復はしてきているのです。
そして何よりうれしいのは、例えば
朝晩熱いタオルで体を拭いてあげているのですが、その時思わず「ああ気持ちいい」と言ってくれたりすることや、
一日の最後に「おやすみなさい」とハイタッチして挨拶する時などに見せる心の底の安堵の笑顔だったりするのです。
私自身もそんな時にこそ最高に幸せを感じます。
ここでのプロフィールとして最後に言っておきたかぅたのはその一点でした。
昨日も少し触れましたところの「普通の生活の中、その奥にこそ人生の答え、人生の目的が見つかる」という事を、呼吸の奥から感じる瞬間がここにあるのです。
現代人は幾つもの心の病理にも侵されていますが、そこを克服しさへするなら やはりあまりにも普通の家族や恋人や友達関係の中に人生の目的が見つかり、そこに人生の答えも見つかるのだというのが私のこのブログの出発の情熱の火ともなっているということです。
詳しく言えば、昨日触れました相模原の殺人事件の犯人の言う「重度心身障碍者は生きる資格はない」という考えの基ともなっている「優生主義」は、病理とはまた別な因果と問題を私たちに提起しています。
なので「優生主義」におけるそのへんの問題は、また別に深くことを解きほぐしていきましょう。
ですが、それは哲学としてはあくまで人生の本当の目的を見失った姿にほかなりません。
重度心身障碍者であろうと、それをいたわり介護する手の中に 幸せを祈り つらさを共感し、時には苦しむことの中にすら、
それそのものの中にこそ私たちは人生の本当の目的を見つけることができるのだということなのです。
もし、その目的感が大勢の人の中で確かなものとなったときの私たちのその目的への団結の力和の力は巨大ですよ。
このブログはやがてそのことを明確にしてゆくことが目的で書き始められました。
それをどんどん弾丸のように書いてゆくプログなので団弾談^^としているわけです。
おっと、今日の予定では「祈指団弾談」の「祈指」について書く予定だったわけです。
ですが、プロフィールの関係で、ここまでですでに長くなってしまいましたので、その予定は明日に回させていただきましょう。
キリストにしても仏陀にしても、多くの教祖たちは、私の推理では同じ「人生の目的感」をこそ語らんとして人たちです。
そこにお互いが争うような因果は本来なかったはずではないでしょうか。
ネット時代が来ました。
私のようなネット機能音痴の老人ですら、右往左往しつつも市民の一人としてネットをなんとか利用できます。
もはや、権力などを生み出す組織化は不必要です。
理解と理解の輪を広げてゆけばいいだけなのだと思うのです。
最終宗教、私が始めて行ってみましょう。
ではまた、明日♪