日本神話の場合の後の人たちの解釈の世界について
キリスト教の場合は、
アメブロの「こ、こげな宗教哲学世界中を探してもありえん」の16、17日目の「ところであなたは人間の嘘をつける能力をどう考えますか?」(5)(6)に書きましたように、
「アダムとイブ」の神話を全く不自然な
何とも言い難い悲しい解釈に変えてしまったわけですが、
では「日本神話」の場合、そのへんはどうなのでしょうか?
「日本神話」の場合は全くその逆です。
「日本神話」自体は逆にほとんど意味のない物語です。
右翼の人たちに怒られそうなことを書いていますが^^、
これもよく読めば、あるいは「素直」に読めば
誰でもわかるところかと思います。
ここでは詳しいその論述はしません。
略させていただきます。
しかし、「日本神話」の場合は、
後の本居宣長はじめ、
学者や宗教家たちの解釈の世界がなんとも深いのです。
それは、「アダムとイブ」の神話の価値を超えています^^。
しかも、具体的にポイントをついて現代人がどうしたら自然な素朴な心に帰れるのかの道筋がそこに示されていたりするのです。
神道もまたそのいい加減さと、素晴らしさの両方をもっていることがこれで分かると思うのですが、
神道で語られる惟神の道というのは、
一霊四魂(いちれいしこん)の瞑想によつて得られる
自然なもともとの魂、もともとの素朴な人たちの心のことであるわけなのです。
その「一霊四魂(いちれいしこん)」というのは
(詳しくは、べつに解説する予定ですが)
幸御霊、奇御霊、荒魂、和魂の四つの魂、を四魂と呼び、
それを統一する心「素直なこころ」を「一霊」と呼んでいる
というわけなのです。
詳しく書けばこれは、本当に素晴らしい考え方であり、
また不思議なことに、
日本人の心の奥深くにいつしか刻まれた精神ともなっているのです。
ただ、私の考えは、この精神や惟神の道の魂は、
かならずしも大和政権が原点となって生み出された日本魂ではなく、
さらにさかのぼり一万年よりも前から日本にやってきた人類が日本の豊かな大自然の恵みなどにより、心も豊かでかつ素朴で争いのない時代が続くこととなった名残でもある点を強調したい考えなのです。
もちろん、詳しくお話しするなら、大和朝廷文化の淵源としてのウバイド文明のお話にもなっていきます。
ウバイド文明もまた、争いの無い、争いを収める心的技術や、対話術にたけた人たちの文明であり、
それがやがて日本に伝わり、大和政権の中にも入り込み、和の精神を日本に植え付けていったという影の歴史も私は聞いているのです。
影の皇室の歴史と言ってもいいでしょう。
こうして、日本の和の魂自体は、二つの大きな源流を持っていると私は思っているのですが、
むしろ惟神の道という総合的日本精神は、
つまり「日本神話」の後の解釈の世界は、
古代の日本人たちが、いかに素朴に生き生きと心豊かに生きてきて、考古学上からもほとんど争いもなく生きてきた民族であることが、そのすべての遠因だと考えているのです。
皇室の森を愛し、植林を大事にし、日本に多くの懐かしい里山をつくり、明治時代には森林を守る仕事もつくりだし、いつもおだやかな気風をもった魂も、同じ淵源の魂だと思うのです。
ユダヤやキリスト教の「アダムとイブ」が
本来の自然な解釈であれば素晴らしい物語であるのに、
後の人たちの解釈が全くおかしなものとなっていったのとは真逆な歴史を「日本神話」が持っているというお話し。
きょうは簡単ですが以上とさせていただきます。
ではまた♪