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祈指団弾談

盲目的信仰ではなく、謙虚さのみを唯一の信仰として理解と理解の輪を広げてゆくネット最終宗教

4日目のはてなブログ準備格闘^^

とうとうこんな形の出発^^になってしまいましたが、

今晩もやはり、

例えば、このいま書いている画面自体がよく見えません。

指の形の矢印を合わせると太字となる部分も、そノ一に合わせてみて初めてBの文字が何とか見えるといった状態なのです。

それ自体はなんとかなるのですが、

このあまり自由時間の取れない生活の中では、この出発はまずはこんなふうになってしまいます。

今日も最後は読みに来てくださった方に有意義と思われる今までの続きをつづけてゆきますが、

少しだけ、このネット音痴老人の格闘状況ももう少し続けさせていただきましょう。

 

91歳の母親の介護生活のために2年ほどプログ活動を休止した経過があるのですが、それまではfc2、ライブドア、アメーバなどいくつかのブログで例えば「骨太スポーツブログ」などというタイトルで別なことを書いていた者なのです。

 

心の舞踊家を自任していましたので、スポーツに詳しいというわけでもなかったのですが、リズムや表情の点からスポーツに切り込むそういう記事を書いていたわけです。

 

ですが、長い間プログを離れていて、親の世話に打ち込んでいた間に考えも進み、

また、親の体力も奇跡的に快復してきましたので、ここに少しの時間のゆとりが生まれることとなり、

また筆を執る気持ちになれたというわけです。

 

まだ自分が生きている限り、これは存在から与えられている使命を私は感じるのです。

この生きている命の中にです。

 

そして、活動が可能な限り、もはや黙っていられなくなったのが宗教のふざけた態度の世界についてなのです。

ふざけた、と書きましたが、それは憤りというよりも、はっきり言えばあきれ果てたという感じでもあるのですが、

(その世界に触れて何度も悲しくなって泣いたこともありますしね)

でも、その盲目性もまた、同じ人間の心ですよね。

今は、これを書き始めた勢いで自然にこんな書き方になっていますが、そのような人たちの心に対しても、

ほんとうはできうる限り、

時にはオブラートにつつみ、

時には麻酔かけ、

痛みや傷を減らした形で、しかして真実は語る必要もある、というスタンスを貫こうと考えていたのです。

 

はてなブログを今回選んだのは、急いでネット上のブログ比較を読んでみていて、ブックマークというのがあり、書いた中身がすぐれていても今では埋もれるかのせいもあるところ、はてなブログではそれがないという事が書いてあったため、

 

ともかく急いで書き始めようとしていた私には、ならまず中に入って見よう、開始してみようということになぅてしまったというのが事の経過だったのです。

 

中に入ってみて、ブックマークについて書かれているところは、このパソコンからは見えないのか、そのへんが薄すぎる形になってしまってるのか?まずは見つかりませんでした。

 

また、実は今の書き方ではなくて、私自身のダンスィングの動画を張り付けた形で出発しようと思っていて音源などを工夫していたのに、もちろんまだその張り付け方法が解らないままですし、

それどころか、プロフィール写真もいろいろ試しているうちに消えてしまいそのままとなっている始末です。

 

ブログタイトルも、こんな追い込まれてしまうようなゆとりのない状況下似て、一気にコンセプトを詰め込んだだけのわかりにくいものに決まってしまったという形^^なのです。

 

祈指団弾談、このタイトルには確かに、これから書いてゆく生きていれば数十年分のすべてが詰まって入るのですが、解りにくいだけでなく、これですと検索の方からも、例えば「祈指」とすら検索する人は確率的にもゼロに近いわけですよね。

 

しかし、そこを私は、はてなにはブックマークがあるのだから、文章に今はともかく集中しさへすれば大丈夫だと考え、そのまま情熱をぶつけ始めようとしたということなのです。

今日初めて朝方少し時間があり「はてなのブックマークとは」とヤフーで検索して、それはそれで登録して始まる何かであることを知りました。

 

おっと、今日は時間が無くなってしまったようです。

 

 

 

また、理由はわかりませんが、これもこの自宅のパソコンのせいなのだろう原因で、この辺まで書き進むと行と行の間をどんどん開けてゆかないと次を書けなくなってしまう変な状態が訪れてしまいます。逆に書き続けるには行を詰めるしかなくなるわけです。ここは、昨日の私の身の上話^^続きは明日に回させていただきましょう。サリバンや私が子供の頃体験した気の触れた状態は、人間の脳の中から知的には物事を見つめ、反省するという能力が奪われた状態、動物の脳の状態と近い状態という事が書きたかったのですし、だからこそその体験が真逆に、どんな状態のどんな人間であれ人間の普通の意識さへそこにあるならだれもが真実の光をつかむことができる可能性を持っているという確信と直感が生まれてきたのです。ヘレンケラーに言葉を教えることができたのも、同じ人間の人間への深い信頼があったから。という結論の下り、もう少し詳しく明日は書いてみますね。

今日は以上とします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どんな